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試写『コリオレイナス』
クレア・ラムトゥフール
2012年1月には、レイフ・
ファインズがウィリアム・シェイクスピアの『コリオレイナス』を脚色したものが公開される。彼自身とジェラード・バトラー、ブライアン・コッ
クス、ヴァネッサ・レドグレイブ、ジェシカ・チャスティンが出演している。大詩人の全作品の中であまりにも見過ごされて来た『コリオレイナ
ス』は民主的な政治と個人的な闘争とを
興味深く混
ぜ合わせている。
この映画はすでに幾ばくかの名
声を得ている。おそらく、一部には『コリオレイナス』がほかのシェイクスピアの芝居に比べて、大画面ではろくに注目を集めてこなかったことに
よる。多くの人にとっては、これは新しい物語かもしれないが、その時代を超えた特質は、わたしたちは政治家の公的な人となりが、彼らが支持す
る原則よりも(あるいはもっと)意味があるという時代に生き続けているという、普遍的な事実にある。
物語は、カイウス・マルティウ
ス将軍(後にコリオレイナスと改名され、ファインズが演じる)が、ローマ市民の心を得ようと必死になっているところをたどる。民衆の拒否に
あって、コリオレイナスは民衆を
無視し、
敵のタラス・オーフィディアス(ジェラード・バトラー)と手を組んで、かつて守った街を攻撃すると、ふてぶてしく誓う。
過去10年間、シェイクスピアの芝居は大ヒットして輝くような機会がほとんどなかった。ローレン
ス・オリビエ、ケネス・ブラナーの傑作の輝かしい目録は、VHSのバーゲンの箱や地方
の図書館で埃をかぶるままにされ、‘Ten Things I
Hate About You’ (1999)から ‘She’s the
Man’
(2006)やまぎれもなく頓珍漢な ‘O’
(2001)まで、観客は中味のない10代向けの映画が浅薄にも老
翁のものだとされるのに従わされて来た。(これらはそれぞれ、『じゃじゃ馬ならし』『十二夜』『オセロ』からインスピレーションを得たと主張
している。)
『ヴェニスの商人』(2004)(アル・パチーノがシャイロック)とか、もっと最近の『テンペスト』(2010)(これは英国では限定公開だったので、ほとんど注目されなかった)のように、もう
ちょっと大詩人のものらしい映画版もあったことはあるが、バズ・ラーマンの『ロミオ&ジュリエット』(1996)
が興行的にも成功し、批評の上でもかなりの好評だったシェイクスピアの翻案以来なにもないのだ。
おそらくこれは、ラーマンの版
が原作のエッセンスを、創造的ではあるけれども受け入れられる取り組みとして例外的だったからだろう。予告編からすると、ファインズの版は、
シェイクスピアをスクリーンに載せるのにとても必要な要素を元に戻し、その一方で最新版によって新しい観客に訴えかけるだろう。
映画のバルカン国家という設定
は、この悲劇の舞台版で人気のある代替設定となってきた。スカートをはいたジェラード・バトラーをぜひとももう一度見たいのと同じくらい、
スーツを着てブーツを履いたキャラクターたちが登場して『コリオレイナス』をしっかりとわたしたちの時代にもたらしてくれることは新鮮なこと
だろう。現代では、民主主義を求める闘争が、世界中の国々でまだ重々しく水平線に姿を現している。
この映画はしっかりとしたキャ
ストが揃っている。ファインズをタイトル・ロールに、スクリーンのベテラン、ブライアン・コックスをメネニウスに、ヴァネッサ・ラドグレイブ
をコリオレイナスの堪え難い尊大な母親ヴォルムニアに。また、この劇はまことに血腥(ちなまぐさ)い――わたしのシェイクスピアの最初の記憶の一つは、ロンドンのグローブ座で血まみれの心臓
が死体からもぎ取られ、上演の間観客席を見せびらかして歩き回ったのを見たことである。
わたしはこの印象的なイメージ
を忘れようと奮闘するだろう――ファインズの版がこのようないつまでも続く力を持つかどうかはまだこれからわかるが、音楽監督と原文
の気の利いた脚色は、舞台からスクリーンへの難しい移し替えを確かなものとするだろう。『コリオレイナス』は、今年の始めにベルリン
国際映画祭でプレミアをしたときに、批評家たちから多くの賞賛をあびたが、これがまたシェイクスピアのもっとも心をつかんで離さない
悲劇の一つにとり、興行的にも栄光となるかどうかは時がたてばわかるだろう。