Scotsman
2005
年2月14日
トーマス・ブレイク・グラバー ーー 日本のお気に入りのスコットランド
人
イエイン・ランディ
ヴィクトリア朝の貿易商で事業家のトーマス・ブレイク・グラバーの名はその生まれ故郷のスコットランドの大抵の人には何の意味もない。しかし、彼が帰化し
た故郷日本では、彼は英雄である。
19世紀に専制的な将軍支配者たちを転覆するのに力があった所謂スコットランド人のサムライであるグラバーは、先見の明のある資本家で、巨大企業三菱を創
設し、非常に尊敬された人として、日本の最高の名誉の1つを授けられた最初の外国人である。
グラバーは1838年アバディーン州のフレイザーヴァーグ
に生まれ、港の沿岸警備隊の長に任命されていた英国海軍士官の息子であった。13歳の時、一家は
アバディーン市のブリッジ・オブ・ドンに引っ越したが、一ヶ所にじっとしていられない若者はじきに貿易商人として世界を旅するようになる。1859年、彼
は日本に住み着き、程なく長崎で最も著名で影響力のある事業家の1人となった。
グラバーは自身のルーツを忘れる事なく、三菱へと成長する自身の造船所を建設する以前に、日本海軍のためにアバディーンの造船所から3隻の軍艦を就役させ
た。また彼は、日本で初めて蒸気機関車を導入し、炭坑を機械化し、キリン・ビールの製造元であるジャパン・ブルワリー[現:麒麟麦酒株式会社]の創設に力
を貸した。
彼のビジネス手腕が非常に活動的で精力的であったので、グラバーは「日本の産業の父」との異名をとった。日本が巨大な産業国となった事を考えると、たいし
た手柄である。また多くの若者を教育の為英国に送り、その中には将来の首相伊藤博文も含まれていて、伊藤は旭日勲章を与えて彼に報いた。
グラバーが日本人の生活に最初に与えた衝撃は、銃やその他の武器という形で、長い間支配してきた徳川幕府すなわち将軍に立向かう侍たちを支援したことであ
る。彼の動機は政治的にロマンチックなものであったか、あるいは単に渡世人のロマンであったのかもしれないが、彼の武器供与は侍に天皇を復位させる軍事力
を与えた。
1868年に交戦状態が終わると、日本一裕福な外国人になっていたグラバーは破産した。しかし、彼の人脈は多岐に渡り、失地回復して余生を安楽に過ごせる
だけのものがあった。
証明されてはいないのだが、広く信じられていることは、グラバーの多彩な私生活がプッチーニのオペラ『蝶々夫人』にインスピレーションを与えたのではない
かということである。彼の妻で侍の娘ツラ[ママ:実際はツル]は、着物に蝶の紋を付けていた。しかしまた、グラバーは他の
4人の女にも子供を産ませ、その
女たちの1人はカガ・マキという芸者だった。グラバーとツラが富三郎という少年を養子にすると、カガ・マキは自殺を試み、長崎を騒然とさせた事件であっ
た。
グラバーは1911年に73歳で亡くなった。彼の邸宅は第2次大戦中のアメリカの原子爆弾攻撃にも無事で、日本最古の現存する西洋式の建物であり、年に
200万人以上の観光客が訪れるこの国でも指折りの観光名所となっている。フレイザーヴァーグのコマース街にある彼の生誕地はそれほど運が良くなく、ドイ
ツ軍の空爆で破壊された。
彼の近代日本への貢献は決して忘れ去られるこ
とはない。グラバーは1889年に現在のキリンビールのラベルの原型として用いられたデザインを提案し、かつ
てキリンビールが宣伝に使ったもじゃもじゃの口ひげを生やした男の謎めいた姿は、冒険好きなスコットランド人への賛辞として見られた。
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関連リンク
Wikipedia
三菱人物
伝(上) (下)