SCOTSMAN
2005 年1月20日

カロデン:ジャコバイト敗北の流血の地
ブレンダン・オブライエン

 *6,000人のハイランダーがインヴァネス近くのドラモシーの原野で政府軍に立向かった
 *1,000〜2,000人のハイランダーが殺された;50人の政府軍兵士が亡くなった
 *戦いがジャコバイトの反乱を終わらせ、ハイランド文化の抑圧へとつながった

culloden
ジャコバイトと戦う赤い制服軍
1746年4月15〜16日

1746年には、ほんの数十年前に退位させられたスチュアート朝の大義はすでに失われているようだった。「老王位僭称者」ジェームズ2世は1715年の失 敗に 終わった反乱のあと、フランスに送り返されていた。そこで、チャールズ・エドワード・スチュアート(あなた方やわたしにとっては、ボニー・プリンス・ チャーリー(ハンサムなチャーリー王子)、もしくは「小王位僭称者」)が、周知の通り1745年8月にグレンフィンナンで軍旗を掲げた時、ほんの7人の部 下と若干のフランスの武器を伴ってやって来た。彼の父もフランスのルイ15世も蜂起を支持しなかった。

実際、1707年以来スコットランドでの蜂起の見込みは、スチュアート家にとってはハイランドの外にはろくに支援がなく、まして絶対主義者でカトリックの 君主に戻ることなどは考えられないイングランドではさらに少ないということだった。

それゆえ、ジャコバイトの蜂起は当初はすばらしい偉業だった。ボニー・プリンス・チャーリーはロンドンから125マイルのダービーまで南に達し、イングラ ンド侵攻に成功したかのようであった。ところが、勝利を目前にして、フランスが具体的な支援をできないとチャールズは用心し、政府軍兵士が彼に対して動員 されるとスコットランドに退却した。

フォールカークでの緒戦の成功の後、カンバーランド公に率いられたイングランド軍に絶え間なく追跡され、チャールズはさらに北に退却した。チャールズの軍 は6,000人程の兵士にまで減り、ほとんどがハイランダーだった。これはブリテンで最後の封建軍だった。クラン(氏族)の長に召集された兵は武器を取る 義務に逆らえなかった。一方、カンバーランドは、自分の兵に戦いたくなかったら離脱せよと言ったと伝えられている。スコットランドの連隊はイングランドの 兵と並んで政府のために戦ったーー少なくとも1つの事例では、兄弟が兄弟に立向かったのである。

1746年4月15日、ジャコバイトのハイランダーは、マリー湾岸のナイムでカンバーランド公の誕生祝いをしていた政府軍を奇襲しようとした。しかしなが ら、ハイランダーは夜明け前に敵に達することができず、疲れ果て空腹を抱えて撤退した。両軍はインヴァネス近くのドラモシー・ムーアで対戦した。経験のな い 兵であるプリンス・チャールズは、直々に指揮を執り、優勢な軍に立向かう唯一の希望であったすばやいハイランダーの攻撃には不向きな湿地に兵を配置した。

両軍は対峙し、戦闘は4月16日に銃撃を交わして始まった。戦術上の失敗をさらに重ねたチャールズは、突撃を宣言する前に敵を攻撃しようと待ち受けた。だ が、政府軍の軍備は上回り、訓練されており、彼らの砲手はジャコバイトを壊滅した。

数分後、多数の死傷者を出した後、チャタン・クランが中央から打って出、他のハイランダーがそれに倣った。しかし、攻撃は組織的ではなく、政府軍の銃撃が チャタンの者たちをアソルの者たちに向かわせ、自らもキャンベルの兵がむき出しの側面に砲撃している石壁に左翼を押し付けられた。

ジャコバイトは敵に達したが、チャタン・クランの21人の将校のうち18人がすでに死んで損害を受けていた。マクドナルド家は政府軍の兵を引っ張り出すた めに一連の自滅的なフェイント攻撃をかけたが、銃撃に倒れた。戦いが続いたのは1時間にも満たず、1,000から2,000のハイランダーが殺された。政 府軍の兵は50人が亡くなっただけだった。

悪名高い戦闘後の結果が、ハイランドでカンバーランドに「屠殺者」というあだ名を与えた。カンバーランドは、負傷者を容赦なく攻撃するよう兵に言い、彼ら は戦場で亡くなった。カンバーランドの兵は逃走したものを追ってインヴァネスに乗り込み、出会ったものは男であれ女子供であれ区別なく殺した。2日間で 140人の男が捕えられ殺された。そして、30人が生き埋めにされたという。

政府軍により14の反乱軍の旗が分捕られ、エジンバラの絞首刑の十字路に持っていかれた。チャールズ自身の長旗は絞首刑執行人が持ち去り、残りは煙突掃除 人たちが持っていった。各軍旗は王子自身の長旗から始まって、平民の絞首刑執行人の手で焼くよう命じられた。

カロデンの後多くのクランの長がヨーロッパに逃れ、その一族はアメリカに逃れた。以後の年月、ハイランドの人々は抑圧された。バグパイプやタータンは違 法とされ、クランの長による司法権は終わりにされ、ハイランドの生活様式を終わりにした排除の先駆けだった。

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関連の地図はこちら
1番がカロデン、3番がフォールカークです。

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