片瀬冬馬は警戒していた。
チャイムが鳴ったので玄関まできたものの、いきなり開けることはしない。開けるのは、防犯用の覗き窓から外が安全なのを確認してからだ。
今までそんなことをした事もない冬馬であったが、ここ最近、とある筋の方々から受けている、謂われのない待遇を考えればそれも当然であった。
冬馬が緊張の面もちで覗き窓を見ると――しかしそこには、誰も見あたらなかった。
いたずらか――冬馬がほっと胸をなで下ろし「一応確認しておくか」と、律儀にドアを開けた、その時である。
「お控えなすって、お控えなすって! さっそくのお控え、ありがとうござんす」
視線を20センチ程下に向けると、そこには着物姿の美少女がひとり、冬馬の視界に入ってきた。
中学生?――冬馬の第一印象は、少女が小柄ということだった。170センチちょうどの冬馬から見ても20センチは低い。
少女は今時珍しく着物を着ていた。見る者が見れば、それが色無地と呼ばれ、帯や紋などによって普段着にも訪問着にもなるものだと分かったかもしれないが、冬馬にそんな知識はない。
辛うじて分かったことは、桔梗色と呼ばれる紫の生地に、裾に鮮やかな八重桜をあしらったシンプルな着物を、これまた鮮やかな八重桜の描かれた帯で結ばれていると言うことだけ。帯の結び方が貝の口と呼ばれていることなど知るよしもない。
それから目を惹かれたのは、結い上げられた髪の毛だった。
今はお団子にしているが、そのふくらみを考えると相当髪は長そうだ――冬馬は小柄な少女をまじまじと見つめる。
少女は冬馬と視線が合うと、一歩、右手の平を膝前に出したまま近づき、女侠客よろしく啖呵を切りだした。
「軒下3寸借り受けまして、つたない仁義じゃありますが、一世一代大舞台、努めて見せます女坂。仁義、切らせて頂きます――
手前生国と発しますは、関八州は坂どころ、相州相模の神奈川にござんす。流れも清き丹沢の、草木も香る葛葉川、つかいつかいて産湯をつかい、秦野盆地をくだりては、葉煙草枯れて唐草の、蔦もつたない女丈夫(じょじょうふ)ではありますが、咲かせてみせます八重桜。
手前姓名の儀、発します。
性は散りゆく八重桜、名を準と発します。
お見掛け通りの小娘でありますが、以後面体お見知りおきの上、恐惶万端お引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます」
「今年の冬は、暖かいからな……」
啖呵を切り終わった準は、冬馬の顔を真っ直ぐに見つめていた。その瞳に、一切ふざけている様子はない。
やり過ごそう――そう決める事にためらいはなかった。冬馬はこの手の手合いに縁は無い。いや、無かったと言うべきか……つい数日前まで、冬馬はごくごく平穏無事な日常を過ごしていたのだから。
それが崩れたのはいつだったか――冬馬が指折り考えると、三日前の出来事に思い当たった。
「お命頂戴――」
学園に向かうために自転車で走っている時だった。突然、道路脇から声が掛かると、ギラリと光る刃物を手にスキンヘッドの男が飛び出してきたのである。
ギョッ――あまりに突然のことだったので、思わずブレーキを掛けて止まってしまう。冬馬が男を見ると、その瞳には、恋する女子高生並の熱がこもっていた。
正直遠慮したい――
冬馬がそんな男の突進を避けられたのは、全くの幸運だっと言える。
冬馬に向かって男が走り出そうとしたときである、一匹の猫が男の前を駆け抜けた。冬馬はどこで飼われているのか知らなかったが、首輪を付けたアメリカンショートヘアーに抱きつかれるのは毎日のこと。これが冬馬を救った。
男は目の前を駆け抜ける猫に驚き、一歩、足を横に踏み外す。これがいけなかった。男は蓋のはまっていない側溝に足を取られると、ポッキリと、嫌な音を立てて骨を折ってしまったのである。
「いで、いでぇ〜」
「だ、大丈夫ですか?」
男のあまりの痛がり方に、冬馬は命を狙われた事も忘れて声を掛けていた。
折れた足を抱え込む用にして痛がる男。本来ならそのまま放っておいても良かったのだが、結局、冬馬が救急車を呼ぶ羽目になった。
男が携帯を持っていなかったのである。
「ありがとう、ありがとう」と、お礼を連呼しながら運ばれていく男。それをなま暖かく見送った冬馬はしかし、あるモノを見つけて頭を抱え込んだ。
これをどうしろと?――道路に残されたそれは、俗にドスと呼ばれるものだった。それからである、それから冬馬は、ことある毎に通学路で狙われる様になったのだった。
やっぱりやり過ごそう――冬馬は準と名乗った美少女に少なからず興味を覚えはしたものの、本能が係わってはならないと言っていた。
これ以上のやっかい事はごめんだ。冬馬は未だ手に掛けている扉をそのまま閉めようとした――が、その手が一人の存在によって止められる。
「あらあらあら、まあまあまあ……」
啖呵を切った美少女、準の背後に、冬馬は自分の母親の姿を発見した。
「冬馬のお友達?」
事情を知らない冬馬の母親は、着物姿の準に特上の笑顔で問いかけていたのだった。
「お茶で良かったかしら……ちょっと渋めなんだけど」
「ふむ、渋めではあるが、手前はもう少し渋くても構いませぬ。結構なお茶、かたじけない」
準は和室に通されると、出された渋茶を一口飲んで人心地ついた。少し温めに入れられたお茶だったが、猫舌の準にはかえってありがたかった。
お茶は良い――準は紅茶や珈琲よりも、渋めのお茶の方が好みだった。
冬馬の母親に出されたお茶は、準には少々渋さが足りなかったが、まずまずの合格点をあげても良い思っていた。もしこれが母親の趣向によるものだとしたら、自分とは趣味が合うかも知れない。
準がニコリと笑顔を向けると、
「あらあら、まあまあ……」
と、冬馬の母親は嬉しそうに満面の笑顔を返す。実は、この家の中で日本茶を好むのは冬馬の母一人だけ。母は準に同じ日本茶党の匂いを感じ取って嬉しかったのである。
微笑ましい時間が流れるが、そんな二人の姿に頭を悩ませる存在がいた。
頭が痛い――どうして自分の母親は、こうも物事に鈍感なのか。冬馬は本当にこの人が自分の母親なのか疑いたくなった。知ってやっているのなら、相当の大物と思わなければならない。
なぜなら、いくら視力が悪くとも目に入る、準の傍らに、日本刀と思わしきものが横たわっていたのだから。
「冬馬、この娘はあなたのお友達? それとも」
背筋を伸ばし、居間でちょこんと座っている準に、冬馬の母は期待に満ちた視線を向ける。
「違うから」
「あらあら、まあまあ……」
だから本当に違うから。冬馬は眉間を指でもみほぐしながら溜息をつく。
「ちょっと二人きりで話すから、母さんは席を外してて」と、母親を部屋の外まで追い出すと、このままではらちがあかないとばかり、覚悟を決めて準の正面に正座した。
「あ〜」
名前……なんだったけ。話を聞こうとした冬馬たが、あまりにも衝撃的な自己紹介だったので名前を覚えていなかった。
それを察したのか、準は「性は八重桜、名は準と言う。冬馬は手前に、もう一度仁義を切り直せと言うのか?」と、僅かに不機嫌な顔になった。
「ちょ、ちょっとマテ。どうして俺の名前を知っている」
「なに、簡単な事。手前と冬馬、通っている学校が同じであったため、調べさせてもらった」
「あ、ああそうか」
俺の通う学園は、小中高に大学と幼稚舎もあるからな……準と言う少女も、御門(みかど)に通っているのか――冬馬は、準が自分と同じ御門学園に通っていると知っても驚かなかった。
御門学園は広い。小高い山を丸ごと一つ買い取って、小中高に加え大学と幼稚舎もあるマンモス校だ。中学生と思わしき準が、自分と同じ学園生だとしても別に驚くことではないからである。
「それで準は、一体何しに来たんだ?」
片手に日本刀を携えて、着物姿で仁義を切る準の姿を見れば大体の察しは付いていた。ここ最近の出来事に関係があるに違いない。そうでなければ、任侠映画に感化されただけのコスプレ娘と言うことになる。
「冬馬、年上に向かって呼び捨ては、いかがなものか」
「はい?」
「手前は17才。御門学園高等部に通う三年生で、冬馬は16才、学年は下であろう」
準はこの手の対応を少なからず受けているのか、冬馬の質問をスルーすると、御門学園の学生証――しかも最上学年である緑色の手帳を開いて突きだしていた。
――冬馬は思わず絶句してしまった。
準はどう見ても中学生にしか見えない。昨今の平均身長上昇のことを考えれば、小学生と言われても可笑しくない程の小柄さだった。
準の幼さの残る顔立ちに、冬馬は本物か――と、生徒手帳と本人の顔を見比べてしまう。
「納得したかの?」
準の言葉に嘘はなかった。そこにははっきりと、準が高校三年生であることが記載されていたし、写真が偽物ということもなかったのである。
「さて、それでは本題にはいろうかのう……その前に、ご母堂もこちらで聞いていただけぬか。その様に聞き耳を立てられと、やりにくくてかないませぬ」
見れば、冬馬の母親がどこかの家政婦よろしく、ふすまの間から好奇心あふれる顔で覗き込んでいた。
「あらあら、まあまあ」
準に見つけられた母親は、何故だか嬉しそうな顔をしていた。話に加われることが嬉しいのだ。
「さて冬馬、お主は最近、何か身に不安を覚えることはないか?」
身に覚えどころの話ではない――冬馬はここ三日ばかり、行き帰りの通学路で襲われる事7回。どれも奇跡的に乗り切ったまでは良かったものの、そのたびに、家にはとても警察には言えないような品々が増えている。
冬馬がその事を説明すると、「ふむ、やはりの……」と、準は飲んでいるお茶のような渋い顔になった。
「すまぬ、アレは親父殿の鉄砲玉だ」
「お前のところのか!」
冬馬は座卓に両手をついて憤慨した。玄関先で仁義を切る準を見て薄々そうではないかと思っていたものの、それが事実と知ると怒りが爆発しそうになる。
何とかそれを押さえられたのは、準の傍らにある日本刀の存在だった。
「ふむ……どうやら本当に襲われているらしいのお」
「涼しげな顔で納得するな」
「すまぬのお、手前がそれに気が付いたのは昨日の夜。どうも最近、組の者がケガをしたり骨を折ったりしておるので親父殿に問いつめたのだが……その前に」
準は冬馬を見つめて言った。
「手前、年上に敬語も使えぬ男は好きになれぬぞ」
「今言う事か!」
おお負けに負けても、どうしても中学生にしか見えない準に、冬馬は敬語を使う事が出来なかった。
「だ、大体、何故俺が襲われなきゃならん」
「それについては、お主にも責任が……いや、そうだな……責任と言うのもおかしいが……」
冬馬の問いかけに、今まできっぱりした物言いの準が不意に口濁ったが、何かに気が付いたのか、
「お主、よもや忘れているのではないな」
と、逆に問いかけていた。
「忘れるも何も、俺は準に会ったことなんて……」
これが初めて――そう言い掛けた冬馬は、頭の中で何かが引っかかった。マテよ、どこかで俺はこいつに会っている……何処だ?
冬馬が記憶を漁ると、ここ三日ほどに襲われた数々の場面が蘇ってくる。
いきなりドスで襲われそうになったり、日本刀で斬りかかられたりと、思い出せば出すほど日常とはかけ離れた生活に涙が出そうになる。
しかしその全てで冬馬は、猫によって助けられた事に気が付いた。
冬馬は何故か、無条件で猫に好かれる。
通学路で毎日の様に抱きつかれるアメリカンショートヘアーもそうだが、どの様な野良猫であろうとも、相手の方から近寄ってくると言う、特殊な能力を持っているのだ。
今まで、冬馬にさわれなかった猫はいない。
猫――そうだ、準とは猫を通してどこかで……猫に……お団子の髪……。
「あっ!」
「う、うむ……思い出したか冬馬。そ、その、手前の唇に、せ、接吻をしたのを組の者に見られていたらしくてな……引退していた親父殿が、張り切っておるのだ」
「あらあらあら、まあまあまあ――」
冬馬の母親が、今までにない程の笑顔になったのは、言うまでもない。
「むっ」
準はその時、これ以上ない程の緊張を強いられていた。
学園には何匹かの野良猫が生徒達から餌を貰って暮らしているのだが、その内の一匹、縞さんと呼ばれる猫が、今、準と5メートルも離れていない距離で対峙していたのである。
準はその猫に見つめられると、口の中はカラカラ、目は充血して異様に鋭く、体が強ばって一歩も動けなくなった。
今から一人、殺してきます――と言われても違和感が無かっただろう。ただ、顔には一つ、不気味でぎこちない笑みが浮かんでいた。強ばる表情筋を、強引に歪めた結果だった。
準は無類の猫好きである。
小さい頃には普通にさわれていた記憶があった。アレは幼稚園時代だったからもう12年も前の話か――だが、準はそれを忘れた事など一度たりとも無かった。
当時から小柄だった準は、猫を抱くにも両手で抱え込まなければならなかったが、その温もり、その表情、ふわりとした毛並みに特上の柔らかさ……そして極めつけの肉球は――準の心をわしづかみにして離さなかった。
この世にこれ程愛らしい存在がいるのか――初めて猫を抱いた衝撃に、準は心底猫の魅力にとりつかれたのだった。
しかしである。準の父親が猫アレルギーの為、家の中では飼う事もかなわず、かと言って野良猫がそう簡単に触れる事を許す訳もない。
仕方なく猫を飼っている友達を捜そうと思ったが――準には当時、友達と呼べる存在がいなかった。
ちょうどその頃、準の父親が組長を務める八重桜組と、昔日よりの宿敵、染井組との間で抗争が起こり、同じ幼稚園の他の園児達と遊ぶことをを禁じられていたのである。
それでも準の中に居座る、猫への情熱は冷める事が無かった。
準の心を乱してやまない肉球の感触。再びその感触を味わう為に、日々準は闘っていたのだ。
「煮干し良し――、鰹節良し――」
準は常日頃持ち歩いているそれを確認した。猫に対する情熱ゆえ、それを常備するのを忘れた事はない。
「笑わば笑え」
もっとも笑った者は殺るがな――準は一度もこの事を恥じた事がなかった。
もう一度、肉球を我が手に――この思いが準を突き動かす。
「よ、よ、よ〜し、鰹節か? それとも煮干しが良いか?」
準の動きはぎこちなかった。あまりに高まる感情を、全く制御出来ていない。
それでも準は、右手に煮干し、左手に鰹節を握りしめ、縞さんと呼ばれる野良猫に引きつった笑顔を向けた。
殺られる――縞さん瞬時に感じ取っていた。あまりにも強ばる準の瞳は、獲物を狩るそれである。
いくら学園で暮らし、多くの生徒から餌を貰っているとは言え、縞さんは野良である。自らに及ぶ危機には敏感だった。
一瞬にして逃げ出さなかったのは、準の殺気にあてられてのこと。もちろん彼女の両手に握られているモノなど気にも掛からない。
野良猫は準の瞳から、視線をはずす事が出来なかった。
「ほ、ほ〜ら、怖くない、怖くないぞ」
じりっ――と、一歩、準が近づいた。
縞さんは餌場の縄張り争いでも、これ程の窮地に立たされた事は無かった。
普通野良猫は、人間と視線を合わせ続ける事はしない。猫は、自分が安全に逃げられる距離以上に近づくと、人間から遠ざかる。何度か振り返って背後を確認するが、視線はあまり合わせないのだ。
しかしこの時ばかりは勝手が違った。
視線をはずした瞬間に狩られる――その思いだけで微動だに出来なかったのである。
不幸にも準は、その事に気が付いていない。
「も、もう少しでさわれる――」
その思いだけで頭の中がいっぱいだった。
捕まえたら、まずはアゴの下をなでてやろう。いや、最初からアゴの下を触られるのを嫌がる猫も多いと聞くから、まずは頭から攻めるか……それから徐々に耳の裏、口の脇、なれたところでアゴの下を攻略し、最後には……最後には……うふっ、うふふふふ……。
肉球を触りまくろう――準の脳内には、これまでに無いほどのお花畑が展開されていた。
そこは、冬馬がいつも利用している自転車置き場だった。冬馬は、登下校の際にここを利用する。その時いつも、一匹の猫が足下にすり寄ってくるのだが……今日はその姿が見あたらない。
別に猫が好きと言う訳ではなかったが、いつも顔を出す猫が現れないのは心配だった。それに、異様な熱気も気に掛かる――冬馬は自転車置き場の脇から強烈な熱気が放たれているのを感じ、そちらに足を踏み入れた。すると、
し、縞さん!――冬馬がそこで見たものはかなり異様な風景だった。
右手に煮干し、左手に鰹節を携えた少女が、対峙している猫を今にも狩ろうとしていていたのである。
どうやら熱気は、その少女が発しているらしい――いや、彼女は猫を触りたいのか? 冬馬は少女の両手に握られているものから、彼女が猫に触れたがっているのだと知った。
その少女とは、八重桜準――その人だった。
しかしである、今時煮干しや鰹節ですり寄ってくる野良猫はいない。少なくとも、縞さんの様に学園で暮らす猫は、以外と良い食生活を送っているので、その程度の餌ではなびいたりはしないのである。
ただ、縞さんは学園の中でも温厚派で知られる猫だった。
厳しい猫社会の中で、一応この辺のテリトリーを確保しているのだから、多少は気性の荒いところもあるだろう。それでも餌をくれる学園生には慣れているはずだった。
その証拠に縞さんは、登下校時に、ろくに餌を与えないにも係わらず、冬馬へと体をすり寄せてくる。
そんな縞さんが、まるで蛇におびえる蛙のようにおびえていた。
冬馬は準のことを注意深く観察することにした。
少女の背丈は小さかった。どう見ても中学生にしか見えなかったが、着ている制服を見ると、彼女が高校生であることが窺える。
次ぎに目に止まったのは髪の毛だった。余程の長さなのか、今はお団子にされてかんざして止められているが、それはかなりの大きさになっていた。
猫を睨み付ける瞳には迫力があり、少し幼さの残る顔立ちにアンバランスな魅力を醸し出している。
やはり触りたいらしい――準はそんな冬馬など見向きもせず、ただひたすらに、ジリ――ジリ――と、少しずつ猫との距離を縮めようとしていた。
その時である。自転車置き場の裏手、裏山の方角から、一本の矢が少女を目掛けて突き進んで来るのが見えた。
矢はかなり遠くから放たれたのか、それ程の威力はなかったものの、当たればただでは済まされない。
冬馬の位置からは見えるその矢も、少女はちょうど裏山に背中を向ける格好なので気が付かない。未だ縞さんを睨み付けている。
「あ、危ない――」
冬馬が声を掛けながら駆け出すと、その声に緊張の糸が切れたのか、少女と一匹が刹那の動きを見せた。
初めに動いたのは猫の縞さんだった。縞さんは冬馬の声に活路を見いだしたのか、少女に向かって飛びかかった。少女はそんな縞さんの動きを見逃さない。縞さんを受け止めるべく両手を広げようとした。
し、しまった――その時準は、自分の両手に握られているモノに気が付いた。右手に煮干し、左手に鰹節……これでは猫をキャッチすることが出来ない。
これが一瞬の隙を産んだ。
縞さんは、準の直ぐ脇をすり抜けて、裏山の方角へ凄まじい勢いで駆け抜けてしまう。その時偶然にも、縞さんが準のかんざしを奪い取ってしまったのか、その長い髪の毛が音もなく振り解かれた。
冬馬はその一部始終を見ていたが、何とか矢が届く前に準を抱き留めると、自分の背中を盾にしつつも、なるべく少女に衝撃が加わらない様に倒れ込んだ。
サク――
その一瞬の後、冬馬の背後から小さな音と共に、矢が地面に突き刺さっていたが、冬馬にも、そして準にもそれは聞こえなかっただろう。
倒れた拍子に、二人は口づけを交わしていたのである……
「え――」
準は、今自分がどういう状況にあるのか理解できなかった。
後一歩、後一歩のところで肉球を我が手に出来る――そう思った次の瞬間、自分の体が何者かの手によって抱きすくめられ、地面へとその身を倒れ込まされたのである。
な、なんで――染井組のカチ込みに際しても冷静さを失わなかった準が、その思考を停止した。
目の前の男に、抱きしめられながら唇を奪われている事実に、頭が回らなかったのである。
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