第二部 変革への課題

工学教育における新しいパラダイム実現のために

アブストラクト

 工学教育における新しいパラダイムの目的は、教育を受ける学生が最新の技術を修得するだけに留まらず、工学系大学における各分野で教育内容のバランスを考え直すことにまで及ぶ。現在の古いパラダイムが工学系の大学や専門学校を占拠し続ければ、卒業したエンジニアが果たすべき役割は小さなものに限定されてしまい、世界経済が要請する早い変化にも対応できなくなる。新しいパラダイムに移行することは決して容易ではない。研究を主体に運営されている大学では資金的な制約があり、さらに改革を主導できる立場にありながらむしろ改革に反対する姿勢を見せる人も多い。抵抗する理由の一つとして、どの大学にも適用できるような出来合いの改革手段がなないことが挙げあれる。しかしすでに改革を進めている大学も多く、学部教育が刷新されてきている。充分な経験が積み重ねられており、どの大学にもそれぞれに適用できる改革策を、その大学の使命、学生の質、職員の質、などに合わせて編み出すことが可能である。

 本論文では先行して改革してきたこれらの大学における手段について検討し、将来の改革を広げていく基礎となることを目指す。

I. 現状の概観

 ABET EC2000の発表[1]と、米国科学財団(NSF)が1990年代初頭から行なった、工学教育全般にわたる改革をめざす事業への資金提供[2]は改革への萌芽と考えられる。1998年に開催されたEngineering Foundation Conference (EFC98)は「新しい工学教育パラダイムの実現」と題して、サウスカロライナ大学のEdward W. Ernst、ワシントン大学のIrene C. Peden両氏を議長に迎え、工学教育の改革にむけた意欲を示した。席上Ernstは、1980年代後半に活発に行われた研究会における議論と、その結果形成されてきた工学教育のあるべき姿について再確認した。すなわち教育課程が期待すべき成果、斬新な教育方法の必要性、そして学生の参画である。工学系教育課程の改革はすでに困難に直面しており、これを乗り越えなければならない。そして新しいパラダイムの実現によって社会に貢献する必要がある[3]。

 EFC98の目的の一つはAction Agenda for Systemic Engineering Education Reform[4]に焦点を当てることである。この行動規範はASEEの報告書[5]、米国研究評議会(NRC)の報告書[6]の公表を受けて、NSFの工学理事会が1995年7月に開催したワークショップにその端を発するものである。NSFはこの新事業で工学教育界からの提案を促そうとした[7]。しかし会議の後理事会は方針を変更し、Action Agenda事業は中断された。

 工学教育改革による変化が実現し、社会に認識されるまでには幾多の困難があるだろう。Duderstadtがその著書で包括的解析と新しいパラダイムの必要性として述べているとおり[8]、これは多くの大学が直面している全体的な問題の一部であるからだ。この点について新たな視点から考察した文献もある[9,10]。今という時代は変化が早く、学生や産業界など多様な関係者の間では視点も互いに異なり、あるいは互いに相容れず、それぞれが無関係なグループにさえ見える。しかも論文発表や研究費獲得といった点で教員の評価や功績が決まるような現状を学界が維持しようとしていることを考えると、改革には大変な困難が予想される。16世紀の政治学者マキャベリは君主論の中でこの状況をうまく書いている。「ここで考慮すべきは、みずから先頭に立って新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはないということである。」(河島英昭訳)
 この論文は工学教育の改革を呼びかける三部構成の論文[11]の第二部であり、発表当時からはいくらか更新してある。第一部[12]では地球環境と工学教育について論じた。この第二部では新しいパラダイムを特徴づける全体的性質について論じる。まず歴史的観点を振り返り、工学教育における新しいパラダイムの必要性について考察する。工学教育の将来に関して利害をもつ人たち、例えば学校管理者、学部職員、学生、親、産業界や政治のリーダたちは、現在立ちはだかっている大きなジレンマが多岐に及ぶことを認識し、議論の積み重ねを通じて積極的に改革を推進していかなければならない。そして広範囲に及ぶ改革をもって、時代に即した、時代の要請に応える工学教育を作っていくべきである。第三部では「工学教育の改革へ向けて」と題して議論を展開する。

II. 工学教育における新しいパラダイム

 2001年のNational Academy of Engineering (NAE)年次大会でGeorge M.C. Fisher議長が述べた言葉を引用しよう[13]。その深さを読みとっていただきたい。ASEEの報告書[5]やNRCの報告[6]、Duderstadtの著書[8]、Boyer委員会の報告書[14]をあわせて考えることで、工学教育改革のための洞察を得ることができる。「現状を把握したら次は実行に移りたい。NAE会員である皆さんは工学教育において充分な業績を持ち、尊敬を受けているはずです。さらに知識と行動の範囲を広げ、自らが21世紀にふさわしいルネサンスエンジニアになっていただくことが1点目。次に政府や自治体に対して積極的に参加すること、公職へも進んで立候補し、問題に対しては現実的で調和のとれた解決策を見つけ出すこと。自分の専門性を公共の議論に生かし、民衆があなたの意見を聞きたいと思うようになること、これが2点目。そして最後に、最も重要なこととして、社会にたち向かい、世界を変えていくこと。さらによい世界に変えていくこと、地球上すべての人の生活水準を改善していくこと。これこそがエンジニアリングの存在意義ではないでしょうか。」

 Fiserの呼びかけの意味を充分に吟味していただきたい。21世紀のルネサンスエンジニアたちには新しいパラダイムに沿った工学教育が必要である。

 残念なことに古いパラダイムは工学系の教育機関に染みついており、そこで育つエンジニアは将来、実にわずかしか社会に貢献できない。「エンジニアは使え、エンジニアに仕えるな」などと言われてきたように、エンジニアは他人が決めた問題を制約の中で解決することが仕事であり、どの問題を解決するかを考えることが仕事ではないと思われている。Samuel C. Flormanは[15]の中でこのことを指摘している。「C. Wright Mills が1956年に出版した有名な『パワーエリート』によると、エンジニアの役目は『雇われ技能者』に留まり、決定権は企業なら役員会、政府や自治体なら理事会が持っている。」もっと強い表現になると、一般大衆の考えるエンジニアとは「やたらに専門化した変人だが多少は役に立つ仕事ができる。しかし、まじめでまともな事業家がしっかり監督するべきで、放任してはいけない連中である。しかも、技師というのは物事を妙な具合に解釈する性質がある」と、1917年に Thorstein Veblenが述べている。

 工学教育における新しいパラダイムの基礎は、人間の価値観、態度、行動様式、そして世界的視野に立った問題解決能力が現在も将来も要求されているという点である。技術的問題だけでなく、社会的、政治的、地球環境、経済活動、それらの相互の関連を正しく考慮したうえでの問題解決が必要とされる。したがって工学系教育の卒業生たちは最先端の技術的知識を持つだけでは不足であり、工学教育全体のバランスが要求される[5-7, 16-18]。産業界も同様な意見を表明している[19-25]。先のFlormanによれば「社会の意志決定に参画するようなルネサンスエンジニアの輩出を望むなら、現在のような職業訓練を目的とした教育では不満足である。優れた科学研究と教育が融合していてもまだ足りない。しかし現在の工学系大学が目指しているのはこの状態である。」[15]

 EFC98におけるテネシー大学のJohn Pradosの表現を引用しよう。「人口の集中によって環境の保全、健康、安全がエンジニアリングにおける設計方針の優先課題になってきた。すなわちゼロエミッション、新製品開発におけるライフサイクルコスト分析、あるいは設計上ひとつの決断がどのような社会的、政治的影響を持つのかを評価することが、事業や開発計画の経済評価で要請されている[7]。」またNAEのWilliam Wulfの表現では「自然の法則と、コストと、安全性、信頼性、環境負荷特性、製造性、保守性、その他あらゆる特性に配慮して設計し、ものを生み出していく仕事がエンジニアリングである[26]。」新しい工学教育パラダイムについて上記のPradosによる意見[7]と文献[5,6,19-25]をもとに、産業界の視点を取り入れて筆者は次のように提案したい。
 

 ライフサイクルデザイン、環境負荷、持続可能な発展に対する配慮と制約のもとで設計を行うことは、環境効率化設計(ecoefficient design)と呼ぶことができる[12]。もちろんここに挙げたリストの内容は時代とともに少しずつ変化していくだろう。しかしこのようなパラダイムによる教育を受けたルネサンスエンジニアたちは、将来直面するであろう課題に立ち向い、解決する技能を身につけている。エンジニアたちは未来の社会に大きな利益をもたらすに違いない。

 翻って考えれば、古いパラダイムで教育された卒業生が不利益にさらされることは明白である。特定の専門に偏った工学教育を施すことは、適切に分散しなかった投資ポートフォリオがちょっとした不景気で大きな損失を出してしまうことに似ている。広い見識を持つエンジニアが必要だという理由がここにもある。そのようなエンジニアなら世界市場での競争に立ち向かうことができ、経済の浮沈を乗越えられる。ところが狭い専門に偏った学生と、それを生み出す教育機関は悪循環を形成する。教育機関がエンジニアたちを待受けている将来の課題に無関心なら、学生にそのような情報を伝えないだろう。学生は狭い意味での工学を超えた課題には気づかず、与えられた範囲の知識だけで卒業できればよいと考える。教育内容の不足に不満を感じることなく、現状を正当化してしまう。学生が集まるから大学に問題はない、という考えは誤りである。学生は与えられる範囲の教育を当り前として受入れてしまうだけであり、教育機関の改革が足りないことまで気が回らないだけである。
 

III. 改革への課題

 NSFでSynthesis Engineering Education Coalitionの役員をしていた、カリフォルニア大学バークレー校のAlice Agoginoは「すでに改革に向けて動いている教育機関は全体の20%である。次の60%を動かしていくために、今までとは違う研究会が必要だ」と述べている[27]。大学に改革を浸透させるのは容易ではないが、困難を克服するための知識や資源を提供するのは研究会やフォーラムなどである。古いパラダイムからの転換は大変難しい。転換に要する資源を握っている人たちは古い価値構造にとらわれており、改革に対して最初に抵抗する。さらに、どの大学にも当てはまるような出来合いの"改革手順"など存在しないという事実が改革への壁になっている。

 改革の鍵を握るのは学部長や大学教職員である。ところがWulfが述べているように、「大学の教職員は一般に優れた『工学系の科学者』だが、実社会でのエンジニアリングについて熟知しているとは限らない。教育課程に対して工学系科学者がの発言力が大きいことを考えれば、産業界では卒業生の能力に不満が高まっていることは不思議ではない[26]。」

 新しいパラダイムに基づいて教育しようと考えた学部長や教職員が直面する困難は学部教育が報われないことである。資金の割当て、待遇、昇進、表彰、それにU.S. News & World Reportのような外部の評価も、教育ではなく研究に重きを置く現実がある。ここに学部教育が入る余地はなく、しかも悪循環が固まっている。つまり、研究の成功は優れた研究者を引きつけ、研究面での恩恵を再生産するので、この"戦略"からは抜け出せない。当事者は否定するだろうが、研究主体の大学において成功と研究成果とはほとんど同義語である[14]。人間は報酬に引かれて行動する、という実例が一つ増えただけだ。社会全体を見渡す姿勢さえあれば、旧来の報償構造に執着することは結果として非生産的になる可能性がわかるし、学部教育への努力と研究とがどちらも昇進や終身在職権の基準として考慮されるようになるだろう。しかし"ゼロサム思考"は現状維持派に強く支持されているらしく、研究か教育かという緊張関係を生み出している。そのような緊張は、NSFの研究支援予算の決定から大学の"資金獲得順位"に、さらに言えば研究を助成する基金の運営にも見られる。

 一部の工学系学部長や学部教職員には、自分たちが教育産業の一員であるという認識が明らかに欠けている。教育という産業をリードするビジネスマンにふさわしい行動は何かという意識がない。ITが工学教育の業界地図を塗り替えてしまったことがすでに指摘されている[8, 17, 18, 28, 29]。優れた卒業生を生み出す競争は、もはや大学と専門学校だけが参加しているのではない。ITとネットワークの普及によって今までなかった教育産業が出現し、いつでも、どこでも、ほとんど誰にでも、教育を提供することができるし、その費用はまず例外なくどの大学や専門学校よりも安い。1990年以降現在までに60億ドルの資金がベンチャーキャピタルから教育部門に流入しているという報告がWall Street Journalに掲載されている[30]。しかもその半分は1999年以降に投資されたものである。「教育は次のキラーアプリである」とシスコシステムズのJohn Chambersが宣言したのは1999年であり、アナリストによると教育産業は2500億ドルの市場になると予想されている。

 現存の大学や専門学校が工学教育のリーダであり続けるためには、新しい競争相手に対抗できる決定的な利点が必要だ。そのような利点なくして今までの学校はネット時代の教育産業に対する優位など保てない。研究が活発ならば教育上の一つの手段といえるが、それだけでは利点として弱すぎる。教育プロセス自体の利点を明示し、卒業すれば投資した学費に見合う成果を約束する。そのためには入学者の選抜から始まり、教育課程、学習機会を注意深く"設計"された環境として提供する必要がある。

 教育課程としての優位性は、新しいパラダイムを反映した教育方法、ロールモデルの存在、指導方法といった場面において明らかになろう。そこでは協調とリーダシップスキルの獲得、チームワークと緊密な連携能力、システム的思考、環境配慮設計、生涯を通じた学習姿勢(何を学びどう学ぶかを知ること)に重点が置かれるはずである。もはや大学の強みとは、どんな情報・知識を学生に与えるかではない。人のつながりを中心とした共同体としての大学に変り、大人数相手の講義の重要性は減少し、少人数での演習や個人指導が重要視され、"サイバー大学"ではなく、「チップス先生さようなら」風の大学になっていくとNoamは予想している[29]。その意味でフランクリン・オリン工科大学に注目したい。ここではInvention 2000計画というゼロからの出発が実行されていて、2年かけて工学教育の方法を根本から改革し、大学のあり方自体を変えようとしている[31]。

 工学系学部長や教職員は「イノベーションのジレンマ・教育業界版」という悩みを持っているだろう[12]。自分たちの組織が研究面で優れた成果を上げていても、さらに革新することが要請されるからだ。もし彼らが要請を無視し現状維持を続けるなら、将来の工学教育市場ではもはや優位を保てないことを覚悟するべきだ。次節で詳しく述べるように、NSFにおける複数の連合組織 とEFC98はこのような現状維持の傾向に危惧を表明している。
 
 

IV. 変革の先進者たち

A. 工学系学校におけるパラダイムシフト

 すでに学部教育に大きな改革を実現した大学も多い。資金をNSFや他の補助団体から組み入れるところもあれば、自己の資源だけで実現したところもある。これらの学校では新しいパラダイムの少なくとも一部が実現している。さらに、経営、製造、医療、法律、政治、生物学などのライフサイエンス、他の工学分野や工学以外の分野にまたがる教育コースを取り入れている学校もある。

 EFC98では改革への挑戦について取上げた講演が多くあった。主に講演者が自ら関与した改革の経験から、次のような共通の課題を提起している。

  1. 産業の現場における課題、ABETのEC2000の要請、他の学校での経験をどのように改革へ生かすか
  2. ITをどう生かすか、他校の経験はどうか
  3. 改革をどうやって進めるか、個人は何ができるか
講演はEFC98の会報に掲載されており、以下に挙げるようなMITなどパラダイムシフトの推進者となった学校からの報告である。

マサチューセッツ工科大学
ハービーマッド大学
コロラドスクール・オブ・マインズ(コロラド鉱業大学)
ウスター科学技術研究所
ドレクセル大学
テキサスA&M大学
ローズ-ハルマン工科大学
コロンビア大学
コロラド大学ボルダー校

 これらの報告をみると、条件を整えれば改革が可能であることがわかるし、改革の手段を読みとることができる。特にNAEのBernard M. Gordon賞がEli Frommに贈られたことを指摘したい。この賞はドレクセル大学のプログラム「エンジニアの教育参加(Enhanced Educational Experience for Engineers)」に与えられた。このプログラムはNSFのGateway Engineering Education Coalitionにつながった。EFC98ワークショップでの議論や結論はErnstによってまとめられており[32]、彼はまた81年から97年までの工学教育に関する文献のレビューも行っている[33]。

 具体的な手段や新しいアプローチは上記の大学の他にも各所で試みられている。例を挙げると、
ジョージア工科大学
ミシシッピー州立大学
ノ−スウエスタン大学
スタンフォード大学
イリノイ大学アーバナシャンペーン校
ノートルダム大学
サウスカロライナ大学
テネシー大学ノックスビル校
バージニア工科大学
イリノイ大学アーバナシャンペーン校
コロラド大学ボウルダー校
から報告されている。

 もちろんこれら以外にも改革を進めている大学があり、研究を主体とした大学によるアプローチによって改革はさらに加速させられる。詳しくは筆者による文献[34]やBoyer委員会報告書[14]を参照されたい。

B. NSF 工学教育連合 EEC

 NSFのEngineering Education Coalition (EEC)の目的は、学部における工学教育改革に向けて革新的、包括的、かつ有効なモデル作りを促すことである[2]。さらにモデルを実行して学生のドロップアウト防止、とくにもともと入学割合の少ない女子学生や少数民族学生のドロップアウトの防止に焦点を当てる目的がある。NSFに8つのEECが設けられ、教育手段(Tools)、教育課程(Delivery systems)、女子学生・少数民族学生の入学数と卒業数の増加、初等・中等教育(K-14)との連携の改善、などの領域で活動した。EECは教育効果評価の考えを普及させ、またEC2000の制定において成果があった。8つのEECのうち6つは活動を完了し、残り2つはまもなく完成する。

 EEC間の協調を通じて、学部の教職員が成果を共有し、相互の資源へアクセスできるようになってきた。Share the Future会議はEEC の目標を受継ぎ、2000年から毎年開催される研究会で、広範囲の工学教育機関が研究成果や経験を共有できるようになっている。2002年3月の研究会Share the Future III からタイトルを拾ってみよう。

 2003年3月のShare the Future IV研究会はNSF、Gateway、Greenfield、SUCCEED Coalitionがスポンサーになっており、会議の内容はウェブサイトで公開されている[35]。

C. IEC イチシアチブ

 IECの関連ウェブサイト[36]を見直してみるとウェブを利用した環境教育の可能性についての議論がみられる[12]。話題の中心は遠隔学習(asynchronous learning)の材料開発である。この他にもIECのProForumやiForumがあり、すべての工学分野で環境教育に活用できる。さらにIECはECEDHA[37]と協力しProForumの利用をあらゆる工学教育機関に広げようとしている。このようなオンライン資源を使って倫理、健康、安全、法律など、学生が工学と実世界との接点について修得することが期待される。

D. NAEの教育イニシアチブ

 NAEが工学教育委員会CEEを設置した目的は「米国における工学教育が活発で現代的であることを確保する」ためである[38]。実際にCEEはいくつかの事業を行っており、工学教育の革新には特に次の3つが関係している。

V. さらなる前進へ

 工学教育の目的は何か、また工学とは何のためのものか。将来の発展に向けた議論はこの基本的課題から出発し、将来の工学教育が形成されていくべきである。次いで検討課題となるのは、学生が何を、どうやって、どこで学ぶのがベストか、また逆の視点から、工学教育機関は何をどうやってどこで教えるのがベストなのか、という課題がある。もちろん中心になるのは"何を"である。学部教育がカバーするべき内容は、工学教育の将来に関する研究などでしばしば報告されているように、技術的な分野だけに限定されない、もっと広い項目を含むべきだと私は考えているが、他の意見や対立する考え方があるだろう。だからこそ、すべての関係者が集まり、互いの意見を交換し、最良のコースを見いだしていく必要がある。

 "何を"に対する答えを見つけるためには、叡智と理解とブレークスルーと忍耐とが必要である。ここに挙げた参考文献からもわかるように、多くの意見や実行結果が報告されている[39-45]。さらに重要なのは、教育機関の"主要顧客"である産業界の意見だろう。AT&Tのベル研究所副所長を務め、ArrayCommの社長を勤めた Karl Martersteckの言葉を借りると「産業界の強い要請がなければ教育界は教育課程を変えようとはしないだろう。産業界は卒業生を雇うために"購入仕様書"を作って、学生の"品質"を規定するべきだ。産業界のリーダたちが、新しいパラダイムで教育された学生しか採用しないという確固とした意思表示をしない限り、教育界は現在のやり方を続けるだろう[46]。」工学系大学のAdvisory Boardがこうした産業界の意見を代表する立場でもあるが、Advisory Board自体が改革を必要としているケースも少なくない。

 新しいパラダイムを工学教育に取り入れていけば、現存する障壁はいずれ崩れ落ちていく。獲得された人智と経験に基づいて、我々は根本的な変化に向けて広い改革を促していく。それは構造的改革であって、表面上や言葉だけのものではない。すでに多くの実例から学ぶことができる。例として、
Action Plan (ASEE Green Report) [5]
Call to Action (NRC Report) [6]
Action Agenda (Peden、Ernst、Prados、Duderstadtによる) [4,8]
Ten Ways to Change Undergraduate Education (Boyer Commission)[14]
Agenda for Change (WulfとFisherによる) [45]
などが挙げられる。

 NSF、ASEE、NAE、ABET、NCSE、産業界のリーダ、また進歩的な大学の教職員によってこれらの貢献がなされ、それぞれの改革が進められている。本論文の第三部[11]で述べるように、NAEは率先して改革を実行できる有利な立場にある。その他の工学系学会、組織、研究会、部門長会議、IECはどれも改革の先導者として、また具現者として貢献することができる。

 Boyer報告から3年経った現在までにかなりの改革が実現している一方で[47]、また大学以外の教育機関との競争や能力のある学生の確保、安定雇用が社会問題となっているにも関わらず[48-50]、改革への抵抗はまだ強い。Committe on Evaluation of Engineering Education が取り上げたように、追跡調査・研究を行うよい時期である。当時のASEE会長S.C. Hollister の要請に基づき、Linton E. Grinter議長が最初のCommitteを開催してからちょうど50年が経ったところでもある。1955年のGrinter報告のような調査が必要であるという意見は新しいものではない。William Groganが工学教育の発達と改革を方向付ける指針研究会を提言したのは1994年のことであり、Irene Peden、John WhinneryはJournal of Engineering Education Roundtable[51]でそれに同調意見を述べている。もっとも新しいところでは、Jerrier Haddadが工学系学部への入学者が毎年減少していることについての調査・研究が必要であると呼びかけている[52]。

 このような調査研究はGreen報告書(1994年)の前文でも要請されている[5]。「まず工学系学部がどのように改革を始めたのかを評価する、報告書でのアクションアイテムを改善する、そして改革の実現状況を測定するための基準を決定する。ASEE Engineering Deans Councilが先導的役割を果し、これらの研究が数年以内に実現するように要請する。」Green報告書以降の8年でかなり大きな変化があった。先導役となった工学系大学やNSFのEECが作り出してきた手法や方法論の広さ、深さをこの研究調査で評価する必要がある。さらに変化を促進していく道筋を確立すること、また組織的かつ持続可能な工学教育改革の進展を測定することも重要である。このような調査は、最近の知見と経験をもったグループが少し距離を置いて実行するのがよい。調査グループの大きな目的は、教育課程を提案すること、各学校が世界の技術と科学分野の速い動きについて行くことができるように、また学生が工学分野や他の分野において産業や政府で期待に応え、リーダとなれるような教育を可能とすることである。
 

IV. ルネサンスエンジニアを育てる環境へ

 ABET EC2000の制定とNSF EECは工学教育の新しいパラダイムに向かう出発点となった。EFC98に見られるように、多くの工学教育学校は自己の、あるいはNSFや他の教育補助金を使って学部教育に大きな変化を実現してきた。これらの改革によって新しいパラダイムの特徴が少なくとも一部は見られるようになった。 こういった"成功事例"には現れていないが、斬新なアプローチによって学部教育を革新しようとしている大学も数多くある。このような成果を総合すれば、有効性が確認された方法論、すなわち何が有効で何がうまくいかなかったのかという知識が得られており、ほぼすべての大学で改革と再活性化のために必要な知的資源は集まっていると言える。次の段階は個々の大学の特性、学生の質、教職員の質、大学自体の目的に沿って資源を有効に活用する段階である。

 最後に、もちろん将来を正確に知ることなどできないが、今後の社会が工学系の学校や、その卒業生であるエンジニアを必要とし、エンジニアが多様な活躍をすることは疑いない。このような社会の要請に応えるために、エンジニアは効率的な情報ネットワークの利用にとどまらないあらゆる情報源の活用と自己学習手段、システムとしての地球、複雑なシステムにおける環境配慮設計といった知識や経験を必要とするだろう。エンジニアは新しい技術を熟知するだけでなく、世界の文化、宗教、倫理、経済活動について知らなければならない。エンジニアはまた、地域的、国内的、国際的な広がりを持った、しかし予想もされなかった問題にも立ち向かっていかなければならない。工学教育が新しいパラダイムの実現に進んでいけば、予期できない問題にも自信を持って立ち向かう"ルネサンスエンジニア"を輩出できるだけでなく、将来の人間と世界に大きな利益をもたらすに違いない。改革が困難に遭遇していても、パラダイムの実現に向けた根強い努力を見ることができる。21世紀がもたらす大きな課題を一歩ずつ克服するための重要な根強い努力である。

謝辞

執筆に当って次の方々から多くの示唆を得ました。ここで謝意を表します。
Ted Bickart, Ed Ernst,  John Prados 各氏には最終稿に、また Tim Trick, Karl Martersteck,  Roger Webb 各氏からは初期の段階から貴重な意見を頂きました。 Alice Agogino, Wayne Bennett, John Birge, Steve Carr, Dick Carsello, Lyle Feisel, Eli Fromm, Jerry Haddad, Martin Hellman, Bob Janowiak, Russel Jones, Bruce Kramer, Bill Lindsey, Malcolm McPherson, Irene Peden, Manijeh Razeghi, Jim Roberts, Kay Vaughan,  Jim Vaughan 各氏から励しと示唆を頂きました。Jack Lohmann 氏と ASEE JEE査読委員各氏の指摘がなければこの論文は完成しませんでした。Mary Leming 氏と 研究系大学における学部教育に関するBoyer委員会は Ernest L. Boyer 氏の卓見を教育界に提供してくださいました。特にErnst教授からは教育審査部門における助言者、推進者として多くの力添えを頂いたことは感謝に堪えません。

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この論文はInternational Engineering Consortiumで2002年10月に発表されたものである。
この論文はJournal of Engineering Education (JEE、ASEE発行)の2003年4月号に掲載されたものである。

Copyright: Frank G. Splitt and the ASEE

著者およびASEEの許可に基づいて、Fred Okayamaが日本語訳を作成した。 (2005)
Japanese translation has been granted by Frank G. Splitt and the ASEE, 2004.