Guardian
『コリオレイナス』評
現代の戦争研究として再 構成され、ニュース番組を挟み込んで、レイフ・ファインズの監督デビューは大成功
☆☆☆☆
アンドルー・パルヴァー
ガーディアン、2011年2月15日(火)
レイフ・ファインズは10年以上前に舞台で『コリオレ イナス』をやっているので、おそらく監督の経歴を始めるには安全な選択と思われたのだろう。彼より前のケネス・ブラナーが『ヘンリー5世』(そして彼より 前にはローレンス・オリビエがその同じ劇で)やったように、優れた舞台俳優はシェイクスピアの言い回しの複雑さを取り扱うのに自信があり、また完全に説得 力があるのだろう。それゆえ、映画化された最良のシェイクスピアが英国の舞台の伝統からはもっともかけ離れているということは皮肉である。黒沢の『蜘蛛の 巣城』『乱』、コージンツェフの『リア王』などの外国語版は詩を正しくするということに煩わされずにすむ。デレク・ジャーメインの『テンペスト』やピー ター・グリーナウェイの『プロスペローの本』などの最も興味深い英語版は、何よりもシェイクスピア的なモチーフを第一として、本質的に劇を全く別物にして いる。
すぐに明らかになるのは、ファインズが劇に対して概念的には特に過激なことは何もしていないということだ。彼 の『コリオレイナス』はテクストと古典的な芝居の特徴にしかるべき注意を払っている。これは、静的で解釈を含まない反応だということではない。権威、権 力、彼らを駆り立てる感情の関係についてのドラマである『コリオレイナス』は、党派間の戦いやお付きの者たちの惨たらしさに苦しめられている現代のヴァル カン型国家の研究として再構成されている。
実際、これは非常に「劇場」的なやりかたで、舞台上では容易に行える。映画監督たちはしばしば映画的な表現が 求めるレベルの細部を提示するのに苦労してきた。
ここではそうではない。もちろん『コリオレイナス』は元々帝国以前のローマに設定されていて、ドラマは一続き の軍事的な成功で彼が執政官として選ばれることに駆り立てた後、ローマの人びとの好意を得ようとすることをコリオレイナスが拒んだことに向かう――政治的 な陰謀で彼はローマから追放され、ローマへの復讐欲のきっかけとなっただけだった。このことで、ファインズと脚本家のジョン・ローガンが話の展開を、内戦 と政治的な内部抗争に苦しむ現代の国家に移し替えたことが当然ふさわしく思われるだろう。ファインズと(『ハートロッカー』を終えたばかりの)撮影技師バ リー・アクロイドは、コリオレイナスが部下を率いて、ジェラード・バトラーのオーフィディアスとの部屋から部屋への銃撃戦などのいくつかのあまりにも ショッキングな戦闘場面をうまくやり遂げた。タフで筋骨たくましいバトラーは、戦争捕虜が身の毛もよだつ地下の拷問室に閉じ込められているじつにもの凄い 連続場 面の間、最高に険悪だった。
しかし、ファインズの映画の偉大な力は、単純にその明快さと知性である。彼は、語りとキャラクター同士の関係 がどのように働くかにはっきりと細心の注意を払っている――簡単に韻文で行き詰まってしまうシェイクスピアの映画では肝要なことである。間違いなく彼は 『コリオレイナス』の言葉の多くが平明であることに助けられた。それは、カットできないほど大事なものが少ないということである。物語話術の表現のいくつ かは、少し軽薄である――この映画の真剣さに何にもなっていないスカイ・ニュース式のヴィデオが頻繁に出てくる――だが、それはファインズが手がけている 注意深い筋の展開の配置を乱してはいない。
それはまた、演技としては、彼が話の展開の焦点ではあっても、彼のコリオレイナスが注意を独り占めしてはいな いということである。もっともなことだが、彼は自分にいくつかの目を引く場面を与えている。戦いの間頭は血にまみれ、人びとの要求に憤慨して苦悩しながら 政府の建物の広間を行ったり来たりする。しかし、ファインズは褒めるに足る抑制を発揮して、他の者にも輝くことを許している。彼は、自分の初監督映画が立 派なものであるということで祝っても良い。
『コリオレイナス』
制作年:2010年
制作国:英国
監督:レイフ・ファインズ
出演:ブライアン・コックス、ジェラード・バトラー、レイフ・ファインズ、ヴァネッサ・ レドグレイブ