SCOTSMAN
2005年2 月1日

チャールズ・エドワード・スチュアート:小王位詐称者
ウィル・スプリンガー

BonniePrince

 *チャールズ・エドワード・スチュアートは一族のために王位を再び得ようと決意していた
 *彼はフランスの支援で侵略し、ハイランドのクランの軍を召集した
 *ダービーまで南に進軍した後、スコットランドに戻り、追跡され、カロデンで破れた

1720年ローマで生まれる

ボニー・プリンス・チャーリーはロバート・ザ・ブルースの直系の子孫だった。
1746年1月、チャールズはフォールカーク・ムーアで勝利を宣するが、最終的にはその年の4月カロデンの戦いで破れた。
何ヶ月もの逃走の後、チャールズはスカイの地主の娘フローラ・マクドナルドの援助で「ベティ・バーク」に変装して逃れた。
1748年にフランスとの戦争が終わると、スチュアート家の者は全員フランスから国外追放になった。


スコットランドの長い歴史の中で、チャールズ・エドワード・スチュアートほど大胆で多彩な人生を送った者はあまりいない。彼は廃位されたイングランドの ジェームズ2世(スコットランドのジェームズ6世)の孫で、英国の王位を得ることを2回しくじった後「老王位詐称者」というあだ名を得たジェームズ・ス チュアートの息子である。

ジェームズ2世は、カトリックを普及することを政府の一番の仕事としたことに狼狽したイングランド議会によって廃位された。それが57年の長きにわたる ジャコバイトーージェームズのラテン語形がヤコブ[英語読みでジャコブ]ーーの軍事行動のおぜん立てをし、それはスコット ランドの地で最も血腥(ち なまぐさ)く最も重大な戦いへと至った。

チャールズは1720年にローマで生まれ、ロバート・ザ・ブルースの直系の子孫であった。18歳でフランスに旅行した後、チャールズ王子はブリテンを攻撃 して一族の名誉を挽回するという彼の計画のために自身の軍を形成した。

25歳の王子はヘブリディーズ諸島のエリスカイに上陸した。チャールズの部下はたったの7人で、5人のアイルランド人を含み、冒険家、年をとった夢想家、 亡命者からなっていた。そこから、部下も金も軍用品もなしに、8月初旬に本土の西部にあるアラセイに向けて出航した。彼はクラン(氏族)の長たちに戦いを 諦めて帰るようにと促された。王子は耳を貸さなかった。

1745年8月12日、チャールズはシール湖の北岸をグレンフィンナンに向けて遡った。何百ものクランの者たちが軍務に到着するまでに数時間が経った。

王子は9月初旬部下を率いてパースを抜け、ついにエジンバラに達した。軍の規模は進軍につれて2,000人以上に増えていた。チャールズは難なく首都に達 した。住民は、チャールズの父、スコットランドのジェームズ8世が今や王であり、ボニー・プリンスはその摂政であると新王位詐称者自身から知らされて喝采 し た。

多くのクランの者たちが冬に帰ってしまっても、未熟な新兵が新たに任命されて部隊の人数は5,500人になった。軍は11月3日イングランドを縦断し、 1ヶ月後ロンドンからたったの125マイルのダービーという南にまで達した。補給は乏しく、どこからもろくに支援がなく、ジャコバイト軍は北に帰ることに した。

だが、チャールズ王子とその軍が予期していなかったのは、戦場に出ていた総勢およそ12,000人の英国軍が何週間も反乱部隊を追跡したことだった。ジャ コバイトは1746年1月フォールカーク・ムーアで勝利を宣言した。そこでは、蜂起の間で最大数のジャコバイト兵6,000人の軍が、政府軍を破った。

多くの者がこの頃には、チャールズ王子はスコットランドに来てから6ヶ月たち、他に追いかけるものーーつまり女やアルコールにもっと関心を持っていると信 じていた。スターリング近郊のバノックバーンでは、クレメンティナ・ウォルキンショーという名の若い女性と出会い、後に庶子の娘をもうけるチャールズの愛 人の1人だった。彼の軍がイングランドから戻って以来、チャールズは夜まで深酒をし、あまりに目覚めるのが遅いので軍がとっくに移動していた朝もあったり した。彼の決定は気まぐれで、大義にとっては厄介者となっていたという主張もあった。

チャールズと彼の軍がスコットランドで最大の戦場での敗北を喫したのは、1746年4月16日、インヴァネスのちょうど南東に位置するヒースの生えた荒涼 とした開けた地カロデン・ムーアにおいてであった。

3,000人ばかり敵が多勢で、空腹で寒いハイランダー/ ジャコバイト軍は戦場で45分間に1,000から2,000人を失い、援護を求めて潰走する間に、女子供を含めてさらに多くが殺された。その戦いで、政 府軍部隊は50人が亡くなっただけだった。

軍のほとんどが士気を失い、絶望したり死んだりした一方で、ボニー・プリンス(ハンサムな王子)は彼の足跡を追う多数の部隊をかわしていた。政府は彼を捕 えたら3万ポンドの報酬を宣告し、破れたジャコバイトの指導者の捜索を大規模にした。

チャールズが逃亡していたこの月日の間どのように過ごしていたのかは、はっきりしないが、難破した商人「シンクレア氏」として変装したり、後にはスカイ島 のアームデールの小ジェントリーの24歳の娘フローラ・マクドナルドの侍女「ベティ・バーク」として変装していたようである。

西方諸島と本土の一部を突進し、変装したチャールズはスコットランドから兄弟に助け出され、1746年9月にフランスに船で戻ったが、フランスはチャール ズの王位への企てを支援する用意がまだできていなかったにも関わらず、彼を守ることに同意したーー彼らのイングランドとの確執が続いている限りにおいて。

チャールズがスコットランドに戻ることはなかったし、ジャコバイトの蜂起は潰えたが、彼はさらに42年間生きることになった。

1748年までには、フランスとイングランドとの戦争は終わり、英国人はステュアート家のすべての者は国外追放にすべきだと主張した。気乗りしないチャー ルズ王子は、護衛付きでフランスから出され、残りの生涯を様々な擬装でヨーロッパ中を移動しながら過ごさざるをえなくなった。こっそりとロンドンを訪れた ことも2回あった。1753年10月に愛人のクレメンティナ・ウォルキンショーにより娘を得たが、その関係は1760年に嫉妬と暴力の只中で終わりとなっ た。

45歳までには、チャールズは何人かの支援者を得、蜂起の失敗後2人は疎遠になったとして父の遺言から除外されさえした。ボニー・プリンスは1772年に 19歳のドイツの姫君ルイーズ・オブ・ストロバーグと結婚したが、子供を作ることなく終わることになった。1783年から、王子は病気になり1788年ま で娘に看病され、発作が起きて1月30日ローマで亡くなった。享年68歳だった。

ボニー・プリンス・チャールズの伝説と、決然たる誇り高きハイランダー/ジャコバイトというイメージは今日に至るまで続いている。

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関連の地図はこちら
1番がカロデン、3番がフォールカークです。
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