SCOTSMAN
2005 年2月8日
スコットランドとイングランドとの連合
ブレンダン・オブライエン

union

1707年に条約の写しはクイーンズベリ公によりアン女王に手渡された

1つの議会に2つの国民を治めることを認めるスコットランドとイングランドとの連合決議は1707年1月に通過し、同年5月に法的に発効した。しかしなが ら、2ヶ国の求愛は順調とはいかなかった。

何世紀もの間、イングランドの王はエドワード1世から1542年のヘンリー8世による「荒っぽい求愛」まで、征服によって2ヶ国を1つにすることに失敗し ていた。スコットランドのジェームズ6世は1603年にはイングランドのジェームズ1世となったが、やはり王冠の下に2国を結びつけることには失敗した。 その息子チャールズ1世も処刑前にうまくやれなかったが、連合の企ては空位期間の間クロムウエルの下で続いた。

両国は、1707年以前には連合について大変に異なった動機を持っていた。イングランド人はプロテスタントの君主を安泰にすることを望み、その趣旨で 1700年に入植法を可決した。しかし、スコットランド人は誰がスコットランドの君主となるかを選ぶのは自分たちの問題とする保安法を可決して、イングラ ンド人の継承権を危うくした。イングランド人はまた、彼らの至上の野望の多くを奪うスコットランドとフランスとの旧同盟を終わりにしたかった。

スコットランド人にとっては、この問題は経済的なものだった。ほぼ国中が大西洋と太平洋との間の貿易を支配するパナマ半島の植民地の計画に投資した 1698年のダリエン遠征の失敗で、経済は破綻していた。両国間の経済戦争が引き続いた。

1707年の法の条項は、貿易・関税・政治の連合を打ち立てた。スコットランド人は英国議会での議員が少ない(総人口の6分の1である国にしては、下院で は議席の12分の1、上院では一握り)という代償に、税金にはとてつもなく好条件を確保した(スコットランド人は収入の40分の1だけを調達する)。

スコットランドの民衆は連合を望まず暴動を起こしたが、貴族たちはもっとやすやすと支配された。話し合いに参加した多くのスコットランドの貴族は賄賂を受 け、ある説明によればびっくりするほど小額の11ポンドで、バーンズが庶民の見方をまとめた有名な「ならず者たちの一群」として描くに至った。

back home