第2回 <番外編>中国の事情について

2008年4月16日から19日まで、仕事で中華人民共和国・江蘇省無錫に赴きました。
以下の文書はその滞在期間中に認めたメモを取りまとめたものです。
昨今、とかくメディアの話題にのぼる同国の事情を少しでも知っていただき、将来的に好むと好まざるとにかかわらず関係が深まるだろう日中両国の状況を踏まえ、いくばくかの参考にしていただきたく掲載するものです。





1.4月16日(水)羽田空港発・上海虹橋空港行きのB777機内にて
航空機の主翼下に展がる雲海はほぼ真上からの太陽に曝されて眼を開くのがつらいほど眩しく輝いている。自分の時計は午前11時を指しているが出発と同時に機内は上海時間となるため実際にはまだ午前10時ということになる。
 大陸へ向かう航空路はひどく穏やかで、この先はいざ知らずここまでは機体の動揺はほとんどなかった。
歴史上、この同じコースを数え切れないほど多くの日本人が大陸に向かい越えて行ったのかと考えると感慨深いものがある。遣隋使・遣唐使の時代のそれは命がけの旅であった。それを今は往路3時間の航空路が結ぶ。だが渡海の方法は違ったとしても、大陸そのものの圧倒的な密度を感じることでは、過去も現在も変わることはないだろう。
例えば真言密教の開祖・空海と天台密教の開祖・最澄はいったいどのような気概を持ち、同じ渡海船でともに海を渡って行ったのだろうか…。
延暦23年(西暦804年。以下同様)初夏、空海と最澄はまったく別の経緯から同じ遣唐使船に乗り合わせ、大唐帝国の首都・長安を目指して留学の途に付いた。しかしその遣唐使船は34日間も東シナ海を漂い、難破同然にして当時の福州に辿りついた。朝廷を中国スタイルに改編し、平安京を建設したことで有名な桓武天皇の時代であった。
最新の機内アナウンスによると上海は降雨だという。
昭和前半の悲しい歴史の中で、上海は2度の戦火に焼かれた。昭和初期の日本人にとって中国大陸とは何だったのか。昭和12年(1937)11月に杭州湾に敵前上陸した日本陸軍第10軍(最終的に30万人の大兵力)は中国政府軍(70数個師団)と大激戦を演じ戦闘地域を焦土と化して、幾多の尊い日中の若者たちの鮮血で大地を染めた。中国軍を撃破した上陸部隊は陸軍中央の制止を無視して独断、当時の首都・南京攻略を決定して西進を開始した。軍隊は上海から驚くべき速度で揚子江南岸を進撃し、これから赴く無錫を経由してそのまま南京へ向かい、今なお日中両国の間に深い傷跡を残す“南京事件”を引き起こす。
かつて密教を中国に学んで日本にもたらし真言宗と天台宗の2大宗派を啓いた空海と最澄、それと昭和の日本軍との違いは何だったのだろうか。
そして同じ道を辿る自分はそのどちらと同じなのか、あるいは違うのか。
上海に降りたら、それを感じてみたい。

2.4月16日(水)上海市内
降雨の上海の街は混沌としている。いや、混乱といった方が正しい。比較的広い整備された道路に自動車が溢れ驚くほど頻繁にクラクションが鳴らされている状況は、日本人の眼には“混乱”以外のなにものにも見えない。しかしその混乱は上海では“常態”であるらしい。車は道路の右側を引切りなしに走り、小さなバイクがその合間を掻い潜っていく。自動車はバイクを避けるためだけではなく先行する車両を追い越すために車線変更を繰り返し、道路は振り子のように左右へ振れる車の群れに被われて眼が離せない状況である。
乗車したタクシーも前を行く自家用車を追い抜くためにウィンカも出さずに車線を替える。急に前に入られた車が後ろからパパパパァーッとクラクションを鳴らした。そのクラクションを完全に無視して割り込みを終えたタクシーは、アクセルを踏んでもう次の追い越しにかかっている。運転手は慣れたもので、急ブレーキなど一切踏まずにごく自然体で抜きつ抜かれつを繰り返している。抜かれることが屈辱であるかのように彼らは追い越しをやめない。
よく事故が起きないものだと感心しているとそれは間違いで、路肩を見ればぶつけぶつかられた車両のドライバたちが車を降りて大声で怒鳴り合っている。「どうしてぶつけたんだ」ではなく「どうして避けなかったんだ」といっていることは容易に想像ができるところだった。

3.4月16日(水)上海から無錫への高速道路
  2010年に万国博覧会を控えた上海は建築ラッシュである。聞けばここ10年余で上海市街の様相は一変したらしい。それまでなかった高速道路が市のど真ん中を貫いている。30階を超える巨大な高層ビルの鉄筋の骨組みが幾つも空高く聳え立ち、そのビルよりも高く設えられた建設クレーンが建材を慌しくビルの上階に引っ張り上げていた。かつての上海のシンボルである外灘(バンド)からは想像ができない超近代的な眺望である。
市の中心から郊外に向かうとその傾向は非常に顕著になる。新しく建設中なのは建物ではない。市街そのものが新たに作られているのである。20階建ての高層マンションがひとつの区画に同時に10数棟建設されている。古い村がたちまちにしてハイテクの市街になる。中国の驚異的な経済成長を象徴するプロジェクト群なのだろう。しかしその規模のプロジェクトが数え切れないほどそこかしこで同時進行している。共産国家のこれが実力かと、ただただ呆れるばかりだった。だだっ広い建設現場の中には夥しい数の工事車両と工夫たちがいた。
  しかし逆にあることに気づいた。
  古い街並みや古い家屋、農村の古い佇まいなどがまったく見当たらない。それらは消滅してしまったのである。高速道路の両脇に広がっている田園風景に“古い佇まい”がまったく含まれていない。高層マンションと明らかにエスタブリッシュメント向けの鉄筋コンクリート3階建て庭付き50坪住宅が延々と数100棟の規模で続いているのである。
  聞くところによれば、中国は国家体制の関係から土地の購入ができない。その代わりに土地使用権が売買されるとのこと。その土地の住民は当局から「ここに街を作る」といわれればそれまでなのかも知れない。
  上海は高度経済成長と万博に向けた膨大な資本投下の中で、物理的にも精神的にも膨れ上がっているのである。

4.4月16日(水)無錫
上海を東京に見立てれば、無錫はちょうど高崎か宇都宮に相当する。上海から100km強という距離もそうだが、街並みに対する建物と人と車の密度が上記2都市に酷似している。
  しかし水平方向のスケールは日本のどの都市とも違うもので、人口224万人のこの土地にはとてつもなく広く綺麗で新しい道路が縦横に走っている。市の繁華街はさすがに煩雑さが目立つが、市そのものが猛烈な勢いで区画整理されたらしく、まるで整理整頓された机の中を見るような秩序正しさが街に漲っている。
  ホテルから目的地の会社へ向かう道路は上下8車線で整備状態は完璧である。市の中心には大きな運河が流れ、甲板近くまで喫水を河に沈めた運搬船が、重そうに運送用のコンテナ船2隻を連結し200mも引き摺りながら航行している。
  車線の一番路肩側は実は「自転車専用車線」で、他の車道と柵で区切られている。高度経済成長は中国の通勤手段を自転車から電動バイクに替えていた。本来の通勤用自転車は二輪車の半数以下に減り、その代わりに電動バイクが道路を席巻していた。原付ではなく電動というところが中国らしい。
  日本と同様に“電動自転車”には速度制限があるが、中国の場合には購入と同時にチューンナップされて30から40km/hの“バイク”に変身する(デザインも外見は原付である)。売り手も得心しているのである。通勤が片道20km以内ならばバッテリの範囲内で、それがバイク通勤の限界距離となる。バッテリは勤務中に会社で充電して帰路に備える。
  車を買えない若者たちが日本円にして3万円程度の電動バイクに跨りヘルメットも被らず、ときには荷台にもうひとり載せて専用道を高速で疾駆している。(右側通行なので)左折の際や狭い道路では専用道がなくなるので、当然、交通事故は多くなるという。

5.4月16日(水)無錫の会社にて
  無錫新区は大規模な工業団地と高層マンション群でその大部分が占められている。地平線まで続くかと思えるほどの土地面積で、見渡す限り低層の工場と高層住宅が展開されている。
  オフィスは新しく快適である。新しいが、しかし中国の荒々しい高度経済成長を象徴するかのように荒削りである。新品のエレベータは1度ではドアが閉まらず数回開閉を繰り返す。壁には剥き出しの配電盤が貼りつき、新規拡張された西側のフロアは床が新し過ぎて歩く都度にまだギシギシいう。
  プロジェクトルームの社員たちは学生といってもいいくらいに若く純朴に見えるが、スニーカにジーンズというカジュアルな服装である点では中国も日本の若者も変わらない。髪を染めたり脱色していたりする者がひとりもいないところだけ日本と違う。
  その彼らが昼休みには「蹴鞠」ならぬ「蹴りバドミントン」(バドミントンのキャトルを大きくしたような羽根を足で蹴り捌いて相手に渡す)をしていた。思わず微笑んだ。
  聞けば無錫新区の工場群は日本企業と韓国企業が多いという。この会社でも週に3回1時間以上の日本語教育を実施している。彼らは下手な日本語だと謙遜するが、われわれの英語の語学レベルと比較すると格段に巧い。読み書きに問題はなく、日本語も通じる。大学を出て初めて日本語を学習してからまだ10カ月とはとても思えなかった。若いからといわれればそれまでだが、自分らの拙い語学力ではいずれ太刀打ちできなくなる気がする。
  各自の事務机の上には同じようなステンレスボトルが置かれている。よく見ると彼らは缶コーヒーやペットボトルのジュースを飲んでいない。なぜかといえば、自販機がないからである。中国では自販機はほとんど設置されていない。悲しいことだけれどと前置きして説明してくれたが、自販機内部の商品や紙幣が狙われるために街頭に設置できないのだという。しかし考えてみれば街頭に無節操に自販機があるのは日本くらいで、諸外国には少ない気がする。中国では大企業のオフィス内で自販機が稀に設置されているだけだという。(実際に自販機を見たのは空港内だけだった)
  ステンレスボトル持参のもうひとつの理由は水質汚染である。
  無錫では水道の水が飲めない。
  ホテルには「水道水が飲料に適さない」旨の注意カードがネッスルの現地法人ブランドのミネラルウォータ2本とともに置かれている。恐らく無錫近郊に展がる中国3大巨大湖のひとつ“太湖”の水質汚濁がその理由である。
  会社にいる間、応接室で出されたのはお茶でもコーヒーでもなく、ネッスルのミネラルウォーターのペットボトルだった。お客に出すくらいに、水は貴重品なのである。

6.4月16日(水)無錫のホテルにて
  上海料理は実は“甘い”。無錫の郷土料理はその上海料理よりもさらに甘い。
  砂糖は無錫の料理に不可欠なのだという。この地方独特の野菜と白身魚を中心とした食事は、恐らく東京で食べなれている四川料理系のメニューとは天地の違いがある。あっさりしており口当たりも良い。香辛料は気にならない程度で癖がない。しかし油断は禁物で、たっぷり使われた砂糖のおかげでカロリーは見た目以上に高い。
  ホテルは三ツ星で、特に日本のビジネスホテルと遜色がない。現地に日系企業が多いことからホテルの従業員も聞きづらいが日本語も通じるので便利である。
  日本との違いは机の引き出しに新約聖書がないことぐらいだろうか。コンセント形状も日本の並行2ピンが使える。いや重大な違いがひとつ。ナイトローブがないのである。肌着で寝るか、パジャマを持参していくか、どちらかを選択する必要がある。

7.4月17日(木)無錫にて
  1日の仕事が終わった後で、会社の重役から太湖の観光に誘われた。九州の宮崎辺りと同緯度でか  
 つ西方に位置する無錫は午後7時を回ってもかなり明るい。
  太湖は総面積2,200平方kmの巨大湖で、ガイドブックなどでは中国の五大湖のひとつだと示されている。今も揚子江(こちらでは長江)と繋がっているとのことだから、華中地方の平野に削り込まれた揚子江そのものの氾濫原だったのだろうと想像がつく。
  太湖の湖面は穏やかで、湖岸からほんの少し離れた湖上に浮かぶ “大湖仙島”がちょうど湘南の江ノ島のように見える。だが湖岸の公園でもらったパンフレットによると2.6kmの距離があるらしい。実際、ここに渡るフェリーに乗ると10分以上かかった。
  仙島には隋・唐時代からの寺院がある。時間の都合でその伽藍までは行けなかったが、夕陽が照らす太湖と島の柳絮(りゅうじょ)が織り成す幻想的な情景に暫し見惚れずにはおれなかった。柳の枝から風に乗り離れた白い綿毛は吹雪のように島を被い、夕焼けに紅く染まりながら島の僅かな地面に雪のように積もっていた。
  太湖の湖面は鏡のようになだらかだったが、残念なことに白く濁っていた。水質汚染は深刻で、湖の水は飲料に適さないどころか健康に害を及ぼすレベルにまで達していた。湖の浅瀬には汚染された水にだけ育つ座布団ほどの大きさの水草の塊りが無数に浮いている。昨年の夏はこの水草が異常発生し、水道水にきつい臭気を与えたという。大規模な駆除が行われたが、残念ながら完全には取り除かれていない。
  それでも太湖が国内有数の観光スポットであることには変わりがない。この日はウィークディだったにもかかわらず、太湖の畔には中国全土からのツアー客が溢れていた。華北・華中には大きな湖が皆無に近いから、上海から無錫を経て南京に至るツアーコースになりつつある。
  同じツアールートを70年前、日本の陸軍第16師団が南京を目指して西進した。無錫は中でも中国軍の防衛拠点であり、日本軍にとっても大切な中継点だった。日本海軍航空隊の爆撃機が無錫を空爆し、双方の歩兵中心の激烈な戦闘が市内で起きた。日本軍の無錫占領は上海での激戦の最中、昭和12年(1937)の11月25日である…。70年前も今も人間の愚かさは変わらず、太湖に舞う柳絮の白さもまたその静けさも変わっていないのだろう。
  仙島の西側に大きなモニュメントがある。錠のように見える金属性のそれはトラック1台分の大きさがある。その錠のパイプの部分には、実際に無数の錠が鍵をかけて結ばれている。日本のおみくじが枝に結ばれているのと同じ感覚で錠が結ばれている。由来を聞いてみると、やはり恋人や新婚の夫婦が訪れた記念に錠をかけていくのだという。小さな錠の中には可愛らしいハート型のものが多く混ざっていた。
  太湖の周辺には高級別荘地が広がっている。どうやら日本円に換算して億単位の高級住宅になるらしい。党の幹部かIT企業家、投資家といったセレブ層が購入するのか、しかしその夥しい戸数に圧倒される。しかも別荘群はまだ足りないとばかりに大規模造成中なのだ。太湖を望む小高い丘の上には、かつて党幹部しか利用できなかった巨大なホテルが建っている。今は民間にも開放されているというそれは、この国にはひどく似合わない尊大で豪華な構えをしていた。
  観光客たちはごく普通に見える。つまり日本人と変わらない容姿そして旅装である。余談だが、滞在中に人民服を着ている中国人をひとりも見なかった。こと文化面でいえば、抗日戦争も文化大革命も昔のことになってしまっているということか。毛沢東の率いた共産主義国家という実像を忘れそうになる。本当にここは中華人民共和国なのだろうか、とときどき思う。
  人々は楽しげに語らい、軽装でスナックをつまみ、家族や景色にハンディビデオカメラを向けている。会社からスーツ姿で訪れたわれわれの方がよほど異常に見えた。
  帰途のタクシーは相変わらずゲームのマリオカートのようなカーチェイスをしながら市内に向かった。タクシーの運転手は怖いもの知らずなのか、公安のパトカーまで平気で追い抜いていく。しかし運転席の彼らは客は怖いらしい。スチール製の檻のような防護柵によって、助手席と後部座席からの攻撃から身を守れるようにしている。街の治安はそれほど悪い。いや、無錫はいい方である。そのアンバランスさが現代の中国そのものなのかも知れない。
  夕食を摂ったあと、無錫の市場を散策した。単独では治安の問題があるとのことで無錫の会社の者が同行してくれた。市場は浅草寺の商店街のような雰囲気だがジャンクな店舗が並び、実際かなり法律的に問題がありそうな商品が見え隠れしていた。他方、骨董品屋や土産物屋の中には古い中国が垣間見え、楽しくもあった。
  市場を出る手前でいかにも貧しい風情の老婆がわれわれに近づいてきて金物の器を差し出して何か中国語で繰り返し話しかけてきた。会社の者は老婆が存在しないかのように無言で通り過ぎ、自分もそれに従った。だが本当はどうすれば良かったのか、今でも判らない。

8.4月18日(金)無錫にて
  最終日になって初めて、会社の者たちが仕事以外で話しかけてきた。
  「中国はどうですか」との日本語に「温かく大きな国ですね」と応えた。ニコッと笑顔が返ってきた。それを契機にプロジェクトルームの者たちが次々に訊いてくる。身振りと筆談、簡単な英単語、それと日本から持参した“指差し中国語会話帳”を使って話が盛り上がった。片言の会話がこちらとあちらを行き来する。通じる。通じるとお互いに嬉しくなる。会話帳を見ながら中国語で「中国語を教えてください」というと、みんなの間からワァッと歓声が上がった。初めて通訳を通さずに双方ともに笑った。
  最後に記念写真を撮る。笑顔が部屋中に溢れた。

9.4月19日(土)無錫にて
  帰路は無錫駅から電車で上海に向かう。電車は新幹線である。あまり知られていないが、JRが技術援助をして「こまち」風の本当の新幹線が運行している。うりふたつといっていいが、日本人はほとんど知らないはずである。在来線の線路を走る仕様のため、速度は200km/h以下だが、無錫と上海を1時間で結ぶ。将来的には北京・南京・無錫・上海を営業速度300km/h、最高時速350km/hの新々幹線が就航する。これは当初、北京オリンピックに間に合う予定だったが、開業が5年延期されたという。いろいろな意味で驚くべきことである。
  上海に着く。
  改めて大都会であることを思い知る。旧共同租界の近く、かつての日本人街を経て上海のシンボル外灘(バンド)に向かう。飛行機の時間の関係でタクシーを降車することができなかったが、通過できただけでも感無量だった。最初の遣隋使船は推古8年(600)に朝鮮半島経由で大陸に向かったが、唐代になると遣唐使船は上海の南方の港湾都市、寧波(当時は明州)を始めから目指した。以来1,300年余り。寧波は杭州湾を挟んで上海にほど近い。
上海から無錫にかけての地域は三国志の時代では呉の国に相当する。かつて空海、最澄が長安を目指し、昭和の日本軍が侵攻した同じ地域である。
空海、最澄と日本軍はともに渇望していたことに変わりはない。
得たいものを得ようとして手を差し出したか、突き飛ばしたか、が決定的に違う。
自分が渇望しているのは何で、今後自分がどういう態度を取るのか。
できれば差し出してみたいし、相手に握り返して欲しい。
お互いに憎みあった過去を過去として認識した上で協力し合えたら良いのではないか?
双方の国家の壁が過去と現在で日中両国の関係を阻害しているように思えてならない。
南京・無錫・チベット…なぜ国家は繰り返してしまうのか。
だが、個人的にはいっしょに笑うことができる。
まずはこちらもむこうもひとりひとり、話をすることから始めよう、と今は思っている。

― 終わり ―
参考1:空海と最澄に関しては、司馬遼太郎著『空海の風景』(中公文庫)に詳しい。
参考2:日本軍の南京侵攻に関しては、石川達三著『生きている兵隊』(中公文庫)を推す。1冊だけ読むならばこの本で良い。南京事件を近代史として調べる場合には、秦郁彦著『南京事件 「虐殺」の構造 増補版』(中公新書)が公平かつ詳細である。
(2008.05.02.)