アクースティック録音時代のレコード

 

電気を使わないで、音を直接音溝に刻みつける初期の方式をアクースティック録音と呼んでいる。当初エジソンは口述記録などの用途を考えていて、音楽のパッケージを商品にするという発想は薄かったらしいが、蓄音器販売の代理人たちは、著名人の演説、朗読や軍楽隊の演奏などを録音、再生してみせるデモンストレーションを熱心に行っていた。

 

1889年にはベルリンやウィーンにもお目見えし、エドゥアルト・シュトラウス・オーケストラがエジソン蝋管に録音したとの記録があるという。目新しいものにはことさらに敏感だったシュトラウス二世のことだから、自らも録音を試みたとしても不思議ではない。

 

事実、二世自身のヴァイオリンと指揮による「春の声」が発見されて、ごく一部だけではあるがCDに復刻されている。エジソン蝋管1895年の録音とされるが、真偽については疑問もあるらしい。それはともかく、内容は雑音だらけ、音も悪いが弾き方はよくわかる。ポルタメントの目立つヴァイオリンで、間合いのとりかたなども微妙だが、これが当時の小楽団の演奏なのだろう。

 

いわゆるSPレコードが市場に出回り始めたのは1900年代に入ってからであるが、もちろんこの頃の生産枚数はわずかなもので、希少、骨董扱いだ。カール・ウィルヘルム・ドレッシャーはシュトラウスより25歳後輩で、シュトラウス楽団にいたこともある人。そのドレッシャー楽団の「青きドナウ」(1901年)や、ヨハン・シュトラウス三世(エドゥアルトの子)指揮のウィーン・シュトラウス・オーケストラが、8枚の片面盤を1903年にドイツ・グラモフォン社から発売(G&T盤)したなどがある。

 

ドイツのブルーノ・ザイドラーヴィンクラーが、自身のオーケストラを指揮した1905年頃のゾノフォン盤や、その後のグラモフォン・オーケストラによるドイツ・グラモフォン盤など、彼は録音に積極的で、なかでもベルリン国立オペラ合唱団による「こうもり全曲」を、はやくも1907年にドイツ・グラモフォンが発売したのが注目される。

 

ザイドラーヴィンクラーは同社の録音プロデューサーとしても活躍、当時の録音の特性に合わせて楽器や編成にも工夫を重ねた。レオ・ブレッヒ指揮、ベルリン・フィルで「常動曲」、ベルリン国立歌劇場の「青きドナウ」や、ヨーゼフ・クライン指揮、ウィーンフィルの「ウィーンの森」「酒・女・歌」も彼のプロデュースとされる。後年には彼自身の指揮、電気吹込みでビクターに「ウィーンの森」「ウィーン気質」「皇帝円舞曲」を入れているが、25センチ片面のたった3分の演奏で、さわり集にしかなっていない。

 

いろいろと試みたにせよ、オーケストラを記録するにはあまりにも周波数帯域が狭いし、音の強弱も捉えられないことから、鑑賞に堪えるレコードとしては、声楽とヴァイオリン、それにブラスバンドあたりが主流だったといってよい。ピアノ録音も少なくはないが音はまことに貧弱だ。しかし声やヴァイオリンについては、高級な蓄音器でのアクースティック再生のほうが、眼前で演奏してくれているような臨場感があって感激ものである。

 本命というべき、ソプラノの初期の吹き込みでは、ゼンブリッヒ、ヘンペル、イヴォーギュンが際立っている。

マーセラ・ゼンブリッヒは1858年ポーランド生まれ、18981909年にはメトロポリタン・オペラに所属していた。1903年から6年にかけて「春の声」をコロムビアとビクターに3回も吹き込んでいて、当時のレコード評論家、野村あらえびすに絶賛されている。楽譜にのっとってストレートに歌っているが、昨今のウィンナワルツを聴いてしまった人間にとっては素っ気ない感じもしないでもない。

 

野村あらえびす、またの名、野村胡堂はレコードの紹介、評論を報知新聞に連載し、絶大な信頼を得ていた。当時、レコードは高価な買い物だったし、海外の演奏を聴く機会などなかったので、この記事が唯一選択の拠りどころだったのだ。

 

1885年ライプツィヒ生まれのフリーダ・ヘンペルは1905年のデビュー後、コベントガーデン、メトロポリタンなど欧米で活躍した。1916-7年に「青きドナウ」「酒・女・歌」をビクター系に、「ウィーンの森の物語」をオデオンに入れていて、なかでも「ドナウ」は、けれんみのない、しかし納得させる美声で好評であった。後年、日本ビクターは「歴史的名盤集」と銘打って、歌だけを集めた12枚組みアルバムを1941年に発売したが、メルバ、カルーソーなどと共に、ヘンペルのそれも仲間入りを果たしている。

 

マリア・イヴォーギュンは1891年ハンガリーの生まれ、ミュンヘンでデビューし、ベルリン、ウィーン、コベントガーデン、スカラ座からメトロポリタンと大活躍だったが、失明のため1930年からは教育者として活動した。大御所シュヴァルツコップも愛弟子の一人である。レコードもアクースティックから電気吹き込みまでが存在する。

 

アクースティックでは「青きドナウ」「おお美しい5月」をブランズウィックに、「春の声」、「こうもり・侯爵様あなたのようなお方は」をドイツのグラモフォンに、さらに「ウィーンの森」に至っては、同時期にブランズウィック、ポリドール、オデオンに吹き込むという人気ぶりだが、聴かせどころをアピールする、ドラマティックな、彼女なりの歌いぶりが魅力だ。当時は歌い手それぞれが自身の歌唱法を持っていて、それがSPを聴く大きな楽しみになっている。電気になってからも、「青きドナウ」「こうもり・故郷の調べ」HMVなどが続く。

 

この3人のほか、大御所、1883年生まれメゾソプラノのエレナ・ゲルハルトはリートを得意としていたが、「ジプシー男爵」のアリアがコロムビアにあるのが珍しい。メーベル・ギャリソンにはビクトローラ「春の声」があり、正統的な歌唱を聴かせる。1886年生まれのアメリカ人で、メトロポリタンを中心に活躍した。ゼルマ・クルツはオーストリアのソプラノで1874年生まれ、「こうもり・故郷の調べ」をHMV片面盤に入れているが、なぜか音程が不安定。当時の録音機の回転に原因があったのかもしれない。

 

オーケストラでは、ビーチャムが1910年に「こうもり」序曲をHMVに、1923年にはメンゲルベルクがニューヨーク・フィルを振って「ウィーンの森」をビクターに、エーリッヒ・クライバーがベルリン国立歌劇場管弦楽団を率いて「青きドナウ」を同じ1923年にVox、後のテレフンケンに入れている。

 

このウィーン生まれクライバーの「ドナウ」は、30センチ4面を使った12分にわたる、繰り返しも丁寧に入れたもので、ゆったりとしたイントロに始まり、ポルタメントでつなぎながら大河の悠然たる流れを表現した演奏がすばらしい。音はまことに貧弱ではあるが、後に近衛秀麿が手本にしたことでも知られている。クライバーは1931年にも2面に収めて再録音をしているが、適度なテンポルバートは、これぞウィーン節の見本とでもいえようか。

 

エルンスト・クンヴァルトもウィーン生まれ、1912から17年まで米シンシナティ交響楽団の指揮者を勤め、この間、1917年に「青きドナウ」をコロムビアに入れている。いくつかの吹き込みラッパの前に小分けにした楽員を立たせての、狭い周波数帯域を考えて楽器も変えた小編成での演奏で、片面だけの4分間に主要な旋律を並べて終わるが、それでもウィンナワルツの雰囲気を出しているのはさすが。

 

対してストコフスキーは元オルガン奏者だが、1912年にフィラデルフィア管弦楽団の指揮者となり、そのスマートな指揮ぶりは映画「オーケストラの少女」で一躍有名になった。1919年には「青きドナウ」をビクターに入れていて、同じく片面だけの4分強。しかし編曲を得意にしていた人だっただけに、ストコフスキー流、アメリカ流「華麗なる金ぴかドナウ」に変貌してしまっている。

 

後に電気吹き込みになって、1926年、1939年、1949年と録音しなおしているのに、どれもが「ウィーンの森」とカップルの短縮1面盤で、ウィーンを無視した自身の編曲によほどの自信があったに違いない。例の野村あらえびすが、ワインガルトナー、クライバーと並んで推薦盤としているが、ウィーンとは無関係に楽しい演奏として評価したのかもしれない。

 

オーケストラ以外では、アルフレート・グリュンフェルトのピアノによる「春の声」が1905年の録音で、他にもいくつかの編曲をしており、同じくピアニストのマーク・ハンブルグは、「キッス・ワルツ」をHMVに入れている。「星条旗よ--」のスーザ・バンドによる「青きドナウ」と、同バンドの副指揮者だったアーサー・プライヤーのバンドによる「南国のバラ」がビクターにあった。

 

ベルリンのダンスバンドなどによる「皇帝円舞曲」他は、どれもすごいポルタメントでつないでいて、当時のこうした楽団の演奏法がわかるのも面白い。いわゆる軽音楽と呼ばれる範疇では、ダヨス・ベラや、マレーク・ウェーバー楽団の活躍が目立つ。珍しいものではエジソンの縦振動盤に、ハンガリアン楽団の「春の声」というのがあった。

 
  以上は私の所持レコードを中心に置きながらの記述であるため、内容に偏りがある点は認めざるを得ない。修正にやぶさかではないので、ご指摘を賜ることができれば幸いである。

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