オリエント急行 VSOE

 以下は1988年にフジテレビが主催し、ノスタルジック・イスタンブール・オリエント・エクスプレス(NIOE)の名称で運用していた列車を、パリ発、シベリア、中国経由で日本にまで持ち込んで走らせた際に作成した文章。

 ここに出てくるイントラフルーク社は解散してしまい、現在NIOEは存在しないが、寝台車はロシアに、その他の車両はスイスに残って時に特別運転などに使われている様子。このうちフランスのルネ・ラリック制作のクリスタル多用の壁面で飾られた1両は、日本のラリック美術館が競り落として、箱根の同美術館に鎮座し、公開されている。

ワゴン・リ

 1867年、ベルギーの大銀行家のドラ息子ジョルジュ・ナヘルマッケルスは、ゆるされぬ恋の痛手を癒すためアメリカへ旅行する。ここで出会ったのがプルマン車。プルマン車というのは、アメリカのジョージ・プルマンが1863年に開発した寝台車で、後、年々豪華な車両を製作、所有し、各鉄道会社の列車に連結運行して大評判になっていたものだ。

 これに感激したナヘルマッケルスは、ベルギーに帰ると早速寝台車を製作するが、ここでプルマンと違っていたのは、プルマンのそれが通路の両側にベッドが並ぶ大部屋式だったのに対し、はじめからコンパートメント式を採用したことであった。

 これにフランス語の、車(ワゴン)と寝台(リ)を組み合わせてワゴン・リと名付けると共に国際ワゴン・リ会社を設立、各国の鉄道に働きかけ、まず連結して走った列車が1872年のパリ〜ウィーン間だった。当時は誰も国際列車の意識など持っていなかった時代だから、これは大変な事件であった。

 彼は単に寝台車を製作したのではなく、これを所有し、車内の一切のサービスを担当したことで、更には1880年になると食堂車も運営し、ヨーロッパ各国に進出したのである。

 けれどもこのアイディアは実はプルマンからのいただきだったわけで、後に本家アメリカのプルマン社も欧州進出をはかったが、成功したのはイギリスでだけという結果になってしまった。しかしワゴン・リが寝台車の普通名詞になったのと同じく、プルマン車といえばコンパートメント式ではない、テーブルつきの豪華座席車を指すようになったのだから、それなりに大活躍したということなのだろう。

 さてワゴン・リ社も、ベルギー国王レオポルド2世の援助もあり規模も大きくなってきて、多くの列車が国境を越えて走り回るようになり、そして計画されたのがオリエント急行である。当時のヨーロッパ人にとっての未知の国、東洋への旅行はひとつの夢で、その東洋の入り口、コンスタンチノープル(後のイスタンブール)を目的地とする「オリエント急行」の名称はまことに魅惑に満ちていた。

オリエント急行

 オリエント急行の公式列車は、各国鉄道の協力を得て1883104日、完成したばかりの木造4軸ボギー車で、寝台車2両、食堂車1両、荷物車2両に招待客40人を乗せてパリ東駅を出発、コンスタンチノープルへ向かった。マホガニーの内装、トルコじゅうたんの床、豪華な調度に度肝を抜かれ、一流レストランなみの食事にたんのうさせられるのではあったが、実は、この時点では線路は目的地までは通じていなかったのだ。

 ミュンヘン〜ウィーン〜ブダペスト〜ルーマニアのブクレシュティ(ブカレスト)とやってきたけれど、ドナウ川に面したジュルジュ(ジュルゲボ)で行き止まり。対岸のルーセ(ルスチュク)へ小船で渡り、ブルガリアの旧式列車でバルナへ7時間。更に黒海を5時間も連絡船にゆられて、ようやく81時間半の長旅も終わりを告げ、ほうほうの体でコンスタンチノープルにたどり着くのである。

 陸路で結ばれるのはなんと6年後の18896月からで、ブダペストからベオグラード、ソフィアを経てコンスタンチノープルへのルートとなる。更に1894年からは旧ルートを利用し、黒海沿岸のコンスタンツァ行きも運転され、併せて毎日の運転となった。

 1900年には、英国からの客のためにベルギーのオーステンデからニュールンベルク〜ウィーン経由のオーステンデ・ウィーン・オリエント急行も走りだすが、一方ではバルカンがさわがしくなり1914年になると第一次世界大戦に突入、オリエント急行も中止されてしまう。1917年にドイツはワゴン・リ社にかわり独自にミトローパ社を設立し、一部列車を運行した。

 1906年、アルプスを抜けるシンプロン・トンネルが開通し、距離的に近いシンプロン経由のオリエント急行を計画したもののドイツ、オーストリアの反対で実現できないでいたが、1918年に大戦も終結。1919年には晴れてシンプロン・オリエント急行が走りだし、従来のルートの再開は1922年まで待たなければならなかった。更に1923年には、ドイツを迂回しスイスのバーゼルからオーストリアのアールベルク・トンネルを抜けるルートができ、後にアールベルク・オリエント急行となる。

 さてシンプロン・オリエント急行はパリのリヨン駅を出発すると、ディジョン〜ローザンヌ〜ミラノ〜ベネチア(ベニス)を経てイタリア国境のトリエステに至るもので、翌年にはベオグラード、ソフィアからコンスタンチノープルまで延長され、1923年には毎日運転するまでに発展したのであった。

 1922年に鋼製のワゴン・リ車が完成、ブルーに塗られ向かい獅のエンブレムをつけた車両は、まずはパリ〜マルセイユ、ニース行き地中海急行(後のトラン・ブルー)に使用。当然オリエント急行の車両も置き換えられる。そして1930年代にはオリエント急行のネットワークがヨーロッパ中にはりめぐらされ、この頃が黄金時代である。

たそがれ

 よき時代はしかし長くは続かない。1939年に第2次世界大戦が勃発、豪華贅沢列車は運休である。1945年、大戦が終わると10月には再開第1号が出発。戦禍のなるべく少ないルートをとった結果、アールベルク・オリエント急行のウィーンまでということになった。そして11月にはベネチアまでシンプロン・オリエント急行も走りだし、更に1948年には、スウェーデンのストックホルムから東欧諸国、バルカン半島を結ぶバルト・オリエント急行を開設、華やかな時代の再来を思わせた。

 しかし戦争よりも大きな敵が実は立ちはだかっていたのだ。戦争で大きく発達した飛行機である。時間のかかる鉄道は、もはや目的地に到達する手段としては時代遅れになっていたのだった。

 ワゴン・リ車だけによる豪華列車は成りたたず、2等、3等も連結するようになり、1962年にはシンプロン・オリエント急行、アールベルク・オリエント急行を中止統合したダイレクト・オリエント急行がシンプロン・オリエントのルートを走りだす。が、食堂車は一部区間だけ、直通寝台車が連結されるのも週2回だけという落ちぶれよう。目を覆うばかりである。

 1971年に至ってワゴン・リ社は寝台車の所有運用をやめてしまい、かわって各国の寝台車を共同運営するヨーロッパ寝台車プールTENが誕生、ワゴン・リ社は車内サービスだけを請け負うようになる。

 主な乗客はバルカン方面から西欧諸国への出稼ぎ人で、当然飛行機よりも安いことが条件だからやむを得ない。1966年にはこうした人達のために、ミュンヘンからオーストリアのタウエルン・トンネルを抜けてベオグラードへ、更にイスタンブール、アテネへ至る、名前だけは立派なタウエルン・オリエント急行も設定されたが長くは続かない。

 1977519日、パリ・リヨン駅をダイレクト・オリエント急行の最終便が出発。現在残っているオリエント急行は、パリ東〜ミュンヘン〜ウィーン〜ブダペスト〜ブクレシュティと、最初のオリエント急行とルートだけはほぼ同じ。中身は普通の国際列車にすぎない。

復 活

 あわれ栄光の客車たちは、197711月モンテカルロで開催のサザビーのオークションにかけられたのではあるけれど、拾う神がいた。

 スイスの旅行社イントラフルーク社を営むアルベルト・グラッツ氏は大変な鉄道マニアで、食堂車ほかを落札し、これらを整備してノスタルジック・イスタンブール・オリエント・エクスプレス(NIOE)の名のもと、1981年から不定期にイスタンブール行きなどのイベント列車を走らせはじめたのだ。フジテレビ主催、1988年のパリ〜シベリア〜中国〜日本の、歴史に残る大旅行もこの会社の車両によるものなのである。

 さてオークション参加のもう1人の男、アメリカの海運会社シー・コンテナ社のオーナー、ジェームス・シャーウッド氏は2両の寝台車を落札した。さらに欧州各地に散在していた約35両を次々に買い集めて復元整備し、19825月からベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)と名づけて、毎週2往復のロンドン〜パリ〜ヴェネチア(ベニス)間の運行をおこなっている。

 こちらはロンドンからドーバー海峡のフォークストンまで、オール・プルマン車による接続列車を運行しているのが特長で、往年のゴールデン・アロー号の再現を同時に味わうことができるという心憎い演出に、ただ脱帽するしかないのだ。

 もう一つ付け加えると、元ワゴン・リ編成の豪華特別列車はスペインでも走っていて、その名はアル・アンダルス急行。セビーリャ〜コルドバ〜グラナダ〜マラガとごく短距離を移動するだけで、あとは観光と、豪華ディナーとパーティーで4日も費やすという贅沢列車。世界一の超ノロマ「急行」なのだ。

 どの列車も、使われている車両は1920年代の最も贅沢だったよき時代のものばかりで、せっかく生き残ったのだから、これからもすばらしい企画と共に活躍を続けてほしいものだと、つくづく思うのである。                   

エト・セトラ

 鉄道というのは事件の舞台として格好の条件を備えているとみえ、洋の東西を問わず、多くの小説、そして映画に血なまぐさい現場として登場してくるのである。もちろんオリエント急行は、その背景からいったってとりあげられないほうが不思議なくらいで、まずはその名もズバリ、アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」1934年に出版され、200万部以上も売ったという。

 40年以上もたってから映画化され、アルバート・フィニーのポワロがしぶいところを見せてくれれば、もう1本、007ロシアより愛をこめて」のショーン・コネリーのカッコよさも、共に忘れられない。どちらも主要舞台はワゴン・リ客車なのだから、映画のセットとはいえ、その内外をフンダンに見せてくれる。つけ加えれば、両映画に出演、牽引していたのはフランスの保存蒸気機関車、1927年製の230G353号で、この機関車は今回の東京行きでもパリ出発時の先頭にたっていたのだ。

 「殺人事件」のほうでは列車が途中雪に閉じ込められてしまう場面があるが、これは小説になる以前、1929年に実際に起こっている。イスタンブール行きがトルコ国内で大雪のために立ち往生、11日間も動けずパニック寸前だったと伝えられる。

 歴史といえば、旧式のワゴン・リ食堂車がパリ郊外コンピエーニュの森に展示されている。1918年、第1次世界大戦終結のベルサイユ条約調印の舞台となったところで、第2次世界大戦で一時パリを占領したヒットラーは、怨念のこの車をベルリンに持っていってしまう。現在あるのは同形車を捜してきて据えたもので、お互い、執念深いのだ。

 歴史には人物も登場しなければならない。乗客名簿。ベルギーのレオポルド2世、オーストリアはカール1世。ブルガリアのボリス3世は汽車好きで運転台にまで乗り込んだという。エドワード8世(ウインザー公)とシンプソン夫人、弟のジョージ6世、そして娘のエリザベス女王。フーバー大統領にロスチャイルド1族。スパイの女王マタ・ハリも居れば、作曲家のレハールにソプラノ歌手のメルバ。メルバはピーチ・メルバという名のデザートまで残したのだ。そしてあなた、も?

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