やあ、何でぼ
くが出てくるのかって? ふむ、実はこれもぼくの守備範囲に入ってるからなんだ。つまり、中世にかなりはやった物語なんだよ。これからマイア
ベーアが題材を取った伝説について話をしよう。
ロベールの名が出てくる最も古
いものは、ドミニコ派の修道士エチエンヌ・ド・ブルボンが13世紀前半に著したラテン語の作品だ。この中には、すでにあらゆる要素が含まれている。次いで
フランス語で書かれた最古かつ充実した作品が現われる。13世紀もしくは12世紀末の作者不明の5,000行余の韻
文物語『悪魔のロベール物語』Roman de Robert le
diable だ。また13世紀の『ノ
ルマンディ年代記』 Chronique de Normandie
は最初の散文版だ。これは数多くの写本に残っているし、1487年以降には印刷もされた。14世紀には、ディ dit
という短い物語の形で語られた。254連の4行詩『悪魔のロベールのディ』Dit
de
Robert
le diablle は後期の版との橋渡しをしている。
まず『悪魔のロベールのディ』に基づいて1496
年にリヨンで、『恐るべき悪魔のロベールの生涯』
La vie du terrible Robert le
dyable という題名で現われた。それか
ら1497年にパリで2つの版が出たが、これらには『悪魔のリシャール、ノルマンディ公悪魔のロベールの息子』という続編も含まれていた。
1500
年頃には英国で、1508年にはスペインで、1516年にはオランダのアントワープで、フランス語の印刷本版に基づいたものが現われた。英国では関心を惹
いたと見えて、散文の作品に加えて韻文の版も現われた。『ゴウザー卿』
Sir
Gowther
という。1591年以降は、トーマス・ロッジという法律家にして医者で文学者の印刷した版が広く知られている。シェークスピアは『リア王』
King Lear で利用している。
ドイツでは初めはあまり普及しなかったんだが、バイエルンの15世紀の写本が2つ知られている。本文はフランスのものとはかなり異なっているので、口承に
基づくものだろう。1599年のゲオルグ・ルドルフ・ヴィルトマンによる『ファウスト』の版本でようやくこの物語が手に入るようになった。これは、
『ノル
マンディ年代記』から派生した版も含んでいるが、大幅に省略され、修正されている。
フランス、スペイン、オランダでは19世紀に至るまで本が再版されていた。その中でも、フランス語の『悪魔
のロベール』が一番良く売れた。
これらの民衆本は、これから紹介する版に較べてハッピーエンドになっていて、いわば男性版
シンデレラといった趣なんだが、中世のものはもっと禁欲的だ。それでは、フランスの物語の紹介をしよう。
「悪魔のロベール」
1.誕生〜少年
時代
かつて、ノ
ルマンディ公が家柄も良く、若く優雅で気立ての良い乙女と結婚した。しかし、10数年経っても2人は子宝に恵まれなかった。いくら神に祈りを捧げても聞き
入れられないので、公妃はついに悪魔に子供を授けてくれるように祈った。するとたちまちその祈りは聞き届けられ、公妃は男の子を身籠もり、出産した。
この子は誕生するとロベールと名付けられたが、四六時中泣きわめいて暴れ乳母に噛みつくので、乳母も乳を含ませるのを怖れて、角杯で飲ませるほどだった。
この子は、1日で他の子の7日分大きくなった。しかも大変に美しい子であった。だが、手の付けられない暴君で、読み書きを教えることもままならない。学僧
を引き裂いてしまったり、目を刳り貫いたりする。最高位の僧も殺してしまった。僧院や礼拝堂のステンドグラスは割る、貧しい者たちにひどい仕打ちをする。
こうして20才になると、ついに教皇も事態を重く見て、ロベールを破門した。父の公は彼を領土の外へ追放した。
2.騎士ロベール
追放されたロベールは
山賊たちの仲間になって、商人や巡礼を殺していた。また20もの修道院を焼き
払った。公妃はあちこちからの苦情に、彼を騎士にしたならば悪逆非道も止むのではないかと夫に言った。そこで公はロベールを捜し出し、騎士に叙任した。しかし、騎士になったロベールは各地の槍試合を混乱に陥れる。その後、ある修道院で60人の尼僧のうち50人以
上を殺し、街には火を放った。
3.ロベールの回心
ロベールは
自身の邪悪な考え、神を憎む心、礼拝をないがしろにしてしまうのは母のせいだと
思いこんだ。だが、聖霊が彼にまだ神の友になれるという考えを吹き込んだ。そこで彼は、母に剣をつきつけて、何故自分がこのような怪物になってしまったの
かを問い詰める。そして、悪魔によって授かった子だということを知り、怒りに駆られ、また悲しみと恥辱に涙にくれた。それから、髪をばっさりと切り落とす
と、母に別れを告げてローマの教皇の許へ告解をしに出かけた。
4.ロベールの告解
なんとか教皇が礼拝をする場に忍び込んだロベールは、足元にすがって一切を告白した。教皇は森の隠者の許へ行き、いかに罪の償いを
したらいいか助言を受けるようにといい、手紙を認(したた)めさせる。その手紙を手に、ロベールは隠者の許へやって来た。
手紙の趣旨を理解した隠者は、ロベールに神から与えられた贖罪の指示をする。それは次のようなものであった。まず、狂人
のふりをして、人々から酷い目に遭うこと。次に、決して口を利いてはならぬこと。第3は、犬の食べ物を横取りするのでない限りは、いかなる物も口にしては
ならない、というものだった。ただし、神の名によって命じ、この3つの贖罪を証拠として口にする使者が来た時にはその通りにすること。
5.ロベール佯狂(よ
うきょう)
こうして、
ロベールは
狂人のふりをしてローマにやって来た。人々に散々な目に遭わされ、息も絶え絶え
になったロベール
は、皇帝の宮殿に逃げ込んだ。時あたかも、皇帝は自身の家令に攻撃されていた。家
令は皇帝の姫を妻にと乞うていたが、受け入れられずにいたのである。この姫は若く金髪で美しかったが、口が利けなかった。
与えられた食物を放り出し、老犬の食べ物を横取りする狂人のロベールを、皇帝は道化として宮殿に止め置くことにする。
6.トルコ軍来襲
こうして7年(ないし10年)経った時、トルコ軍が攻めてきた。皇帝は、家令に援軍を要請するが、家令は姫を妻にくれるのでなければ出陣しない。こうし
て、家令抜きでトルコ軍と戦い苦戦している様を見て、ロベールはなんとか武器を取って戦場に赴きたいものと、庭園の泉の傍らで祈っていた。する
と、真っ白な鎧兜に身を包み、楯と剣も馬も真っ白な高貴な騎士が現われ、イエス・キリストの使者であると述べた。この騎士から武具と馬を借りたロベールは、戦場にはせ参じ、たちまちのうちに敵を蹴散らす。トルコ軍は浮き足立って逃げ
た。追撃が終わるとロベールは
戻ってきて、武具を騎士に返し、血だらけの顔を泉で洗った。この様子を、姫が窓から一切見ていたのであった。
戻ってきた皇帝は祝宴を開く。食事にやってきたロベールが酷い傷を負っているのを見て、皇帝は自分の留守に彼を痛めつけ
者がいることに憤る。姫は身振り手振りで事の真相を説明するが、信じてはもらえず、連れ出される。
こうしたことが、さらに2回続く。3度目に、皇帝は白い騎士の正体を知るために、30人の騎士を潜ませて、帰る白騎士を引き止めようと試みる。しかし、彼
らは追いつけなかった。ただ1人、彼の馬を仕留めようとした騎士が誤ってロベールの腿を槍で突いてしまい、穗先が折れて残ってしまった。戻ってきたロベールは、泉の傍らでなんとか穂先を抜きだし、それを土に埋める。そして、傷口に苔を当
てて凌いだ。この様を見ていた姫は涙を流した。
皇帝は白騎士を引き止められなかったので、その者が名乗り出たなら姫を娶(めとら)せようとする。姫は、道化がその人だと
身振りで示し、彼を愛していると父に伝えるが、相手にされない。
7. 家令の奸計と失敗
そこへ、姫を手に入れようと家令が白騎士に扮して現われる。腿の傷に刺さった槍の穂先を検分させられた槍の持ち主の騎士は、自分の物ではないと思うが周囲
の反応を考えて、自分の物と認めてしまう。そこで皇帝は姫を娶せ、皇帝亡き後はその位を継がせることを約束する。姫はこの事態に気も狂わんばかりになり、
泣き悲しむ。皇帝が姫を家令に手渡そうとした時、奇蹟が起き、姫は口を利けるようになり、真相を語る。その間に家令はこっそりと逃げうせた。姫は、ロベールが庭園に埋めた槍の穂先を掘り出し、証拠として出す。槍の持ち主は今度は確かに自
分の物であると認める。
8. ロベールが真相を語る
犬と共に横たわって血の気もなくうめいていたロベールの許に人々がやって来て、彼を皇帝の前に連れてきた。皇帝の頼みにも彼は口を開こ
うとはしない。姫が語りかけても、教皇が語りかけても答えなかった。そこで、あの聖なる隠者が恩寵と祝福を授けようと語りかけると、ようやく満足して包み
隠さず話した。その場に来ていたノルマンディーの貴族4人は、ロベールにどうか国に戻っていただきたいと乞うが、彼は一族の中から然るべき者を選んで
領土を治めさせよと言う。そして、ロベールは隠者と共に森へ去って行った。
9. エピローグ
隠者亡き後は彼がその庵に住んで、神に仕えた。ロベールが亡くなると、人々は彼の亡骸をローマに運び、聖ヨハネ教会に葬った。たまたま、
ある大集会が開かれた折りに、ル・ピュイの立派な人物が聖ロベールの遺骨を持ち帰り、ロベールという名の修道院を建てた。
以上が13世紀のフランス語の韻文物語の概要だ。15世紀のものでは、最後が異なっている。先ほど、男性版シンデレラと言ったように、彼は姫と結婚するこ
とになる。初めは隠者が姫との結婚を禁じ、ロベールがローマを去った後に、天使が彼にローマへ戻って姫と結婚するようにと指示する。
結婚式の後2人はルーアンへ出発し、そこでロベールは父の後を継いで領主となる。その後彼は長く慎ましい人生を歩み、妻はリシャール
という息子を産む。彼は後にシャルルマーニュ(カール大帝)に仕えて、偉大な手柄をたてる。
歴史上の「悪魔のロ
ベール」
これが『悪
魔のロベール』の物語だ。ところで、イングランドを征服したノルマンディ公ウィリアム(ギョーム)の父は「悪魔のロベール」と呼ばれていた。それは、彼の父が亡くなった時、兄のリシャールが後
を継ぎ、ロベールはイエモワ伯になったのだが、1年後にリシャールが亡くなると、ロベールが殺害したのではないかという疑いが持ち上がった。そこ
でこのあだ名が付いたという訳だ。そのため、上記の物語の「悪魔のロベール」とよく誤解される。
ちなみに、征服王となったウィリアム
は庶子なのだが、ロベールは彼を跡継ぎとし、エルサレムへ向かった。彼は、コンスタンチノープル経由でエルサレムに赴き、その帰途ニケーアで1035年7
月2日に亡くなった。典拠によっては、彼は毒殺されたので亡くなったのは7月1日とも3日としているものもある。息子のウィリアムは8歳で後を継いだ。英国の歴史家マームズベリのウィリアムによると、1086年頃ウィリアムはコンスタンチノープルとニケーアに使者を送って、父の遺体をノルマンディに埋
葬しようとした。しかし、イタリアのアプリアまで帰国の一行が来た時、使者たちはウィリアム自身も亡くなったことを知り、ロベールの遺体をイタリアに埋葬することに決めた
という。
これで、「悪魔のロ
ベール」の話はお終いだ。ちなみに、興味のある人はここで紹介したフランス語の物語を日本語の翻訳で読めるよ。
『フランス中世文学集 3』(白水社)に入っている。図書室にも入れておいたよ。
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