中国・三峡


2002.Feb.


初めての海外旅行で中国の三峡クルーズに行ってきました。
巨大なダムに沈みゆく三峡の自然を見ておこうというただそれだけの理由ですが、
実際に目にしたその光景は風光明媚とはこのことか、と思ったほど美しい中国らしい風景でした。
大分前の旅ですが、いろいろな本や資料で読んだことを交えつつ、
思い出しながらここでご紹介していきたいと思います。




初めての海外旅行・中国へ!

上海航空に乗り換え
上海航空に乗り換え

 飛行機に乗ったことも国内で1回しかなかった私が、突然、海外へ行くことになりました。
大学の卒業式までの休みを利用して、大学の授業で学んだ中国の三峡へ行くことに。

 初めての海外旅行で三峡クルーズをするなんて、なんて渋い、と入った
ツアーのコンダクターの方がおっしゃってましたが、そうかもしれません。
確かに一緒のツアーで行った周りの人たちを見てみると、中年以上の方ばかりでした。
卒業旅行として、ヨーロッパやアメリカなどに行く学生が多い中、ちょっと変わっているのかもしれませんが、でも農大生としてはやはり、巨大ダムに沈みゆく三峡の渓谷美を見ておきたい、ダム建設を取り巻く自然保護論やダム建設推進論等をこの目、この耳で知りたい、というのがきっかけでした。
そして中国へ上陸したのでした。


三峡ダムについて

ダム建設中の看板
ダム建設地に立っていた看板

 三峡ダムは、中国最大の川・長江(全長6300m、ナイル川、アマゾン川についで世界第3位の大河)の中流域を堰き止め、湖北省宜昌市三斗坪に建設されているダムです。
中国は、これを国家的大プロジェクトとして建設を進めています。
完成予定は2009年。完成すれば1820キロワットの発電が可能になり、世界最大の水力発電ダムとなります。
最終水位は海抜175m、全長660km(これはおよそ東京から岡山の距離に匹敵)、面積約1084平方km、年間発生電力量は850億キロワットアワー(中国の電気の1割弱をまかなえる)。
 また150m高いダム湖を船が通るためには、「5段シップロック」というシステムで上がります。これは、ダムの上下で異なる水位を利用して、順に水門を閉めて、水を抜き下の水位と同じにさせ、扉を開き船を通過させるものです。パナマ運河が最初にこの方法で船を通過させたことで有名です。このダムは水力発電のほかにも洪水調節、水上交通、灌漑なども目的としています。

 このダムについてはいろいろな議論がなされています。ダム建設による中国の有名な三国志にまつわる史跡等の破壊・水没、三峡の美しい自然が少なからず破壊されてしまうということ、河川の水質が変化することにより川や周辺に生息する生き物に及ぼす影響、地形地質が変わってしまう可能性、地球全体の環境に何らかの影響を及ぼす危険性、地震時のダムの強度、ダム建設予定地に住んでいる約130万人の住民の強制移住・就職問題・生活保障などなど、本当に様々な問題が懸念されています。

 しかし、中国は慢性的な電力不足で、また近年の急激な経済発展によりさらに電力の需要が加速しています。
それを補うため、原子力発電や火力発電等で電力をまかなうとなると、それこそ地球環境に大きな負担を強いることになるでしょう。
また、洪水に対する対策としても、ダム建設は否めないのかもしれません。

 様々な議論がされる中、ダムはといえば着々と工事が進み2003年6月には水を堰き止めダム湖の貯水が始まり水面を徐々に上昇させており、2009年の完成を待つのみという状態です。


 

武漢

黄鶴楼 黄鶴楼内の装飾
黄鶴楼 黄鶴楼内の装飾

 上海に着いてすぐ乗り継ぎ武漢へ。
中国の水路と陸路の要である武漢では、漢詩でも度々登場する江南三大名楼の一つ、黄鶴楼を見に行きました。
例えば、李白の詩「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」では、李白が友人の孟浩然が東方へ旅立つ情景を詠っています。

  黄鶴楼は三国呉黄武二年(西暦223年)に軍事目的のため建てられたと言われており、その後火災により崩壊するなどしたが、修復が繰り返され、現在のかたちは1981年に再建されたものだといわれています。五重塔のように五層になっているが現在はコンクリートで出来ているというから驚きです。見た目には美しい木造の塔に見えます。

 また、黄鶴楼には鶴にまつわる伝説がいくつか残されているそうです。そのうちひとつをガイドさんに聞きました。

  昔この黄鶴楼が建つ前、この場所が酒屋であったころの話。
  この店の主人は儲かってはいなかったものの大変人柄が良く、ふらりとやってきたお爺さんが酒代を払わないのも咎めず
  いつも飲ませてやっていました。
  ある日、お爺さんが日頃お酒をただで飲ませてくれているお礼にと、みかんの汁をしぼって壁に黄色い鶴の絵を描き、
  「酒客至りて手を拍たば、鶴即ち下りて飛び舞わん」
  と言い残して去っていきました。
  すると、その言葉通り、お店のお客が手拍子をしてみると壁の黄色の鶴が飛んできて、手拍子に合せて舞い始めました。
  店の主人もお客もびっくり。
  この噂はたちまち広まり、酒屋は大繁盛しました。
  主人は大金持ちになり喜んでいました。

  十数年経ったある日、またふらりと一人のお爺さんが酒屋にやってきました。
  みすぼらしい格好のお爺さんが、「お金は持ち合わせていないのだがお酒を飲ませてくれないか」と主人に頼むと、昔と違い、
  すっかりお金を儲けることにとりつかれた主人は「お金を持っていないのならお酒を飲ませることはできない」と断りました。
  すると、そのお爺さんは仙人となり黄色い鶴に乗って空に飛び去って行きました。
  黄色い鶴がいなくなってしまった酒屋はまた元のように繁盛しないお店になってしまいました。

昔話や伝説には、こういった教訓を織り交ぜるという点で日本も中国もみんな同じなのですね。

武漢長江大橋 黄鶴楼からみた景色
武漢長江大橋 黄鶴楼からみた景色

 右の写真の真ん中にうっすらと見える大きな橋は、武漢、南京の橋と並んで有名な武漢長江大橋です。黄鶴楼から見ました。
全長は約1100m。(武漢の橋は約1600m、南京の大橋は約6700m。)


 黄鶴楼を見学した後、バスで宜昌の船の乗り場まで移動すること5、6時間。
中国らしい、農村風景を眺めながら移動します。
家々の戸口前では人が集まり、何をするわけでもなく壁にもたれて話し込んでいたり、歯磨きを外に向かってしていたり、カードゲームをしています。

 広大な農地には牛が沢山飼われており、のんびりとした時間が流れていました。
 ちょっと思ったのは、綺麗に東西南北に道や土地が整備されているのか、ハイウェイから見て横に並木道がまっすぐに延び、遠く向こうの道は、その並木道に対して垂直に延びている、といった感じでした。
すーっと延びた、ポプラのような木の植えられた並木道が、私の中で中国の印象として今も色濃く残っています。

 東京にいると、ビルが立ち並び、ビルの向こう側を見渡すことなんてできませんし、東京でなくても山や森の多い日本では大きな遮るものがない場所を探すほうが大変です。
しかし、この武漢から重慶までの間に見た風景ではずっとずっと向こうの景色まで見られます。ずっとはるか向こうの並木道も見えます。
こんな景色をまた見たくて仕方がありません。


いざ三峡クルーズへ

船室内の様子 船室から三峡渓谷を眺める
船室内の様子 船室から三峡渓谷をすぐに眺めることができる

 宜昌には夜到着しました。ついに船に乗り込みます。

 まず、船内を散策してみました。広いロビーがあったり、夜はバーにもなる部屋があったり食事をする大きな部屋もありました。各部屋には以上ほどのスペースにトイレと洗面台とシャワーがありました。かなり狭いので、やりくりするのが大変ですが慣れればなんてことはありません。部屋の中も広くはありませんが居心地が良くて快適でした。

 夜、船は翌日の川下りのため、みんなが寝ている間に一気にく塘峡まで上っているようでした。夜デッキに出て周りを見てみると、本当に真っ暗で、明かりといえば、船が岸壁に座礁しないよう注意を促す明かりしかありません。
しかも、すごいスピードで川を上っているようで、外に出ると風が強く、しかも真っ暗なので気配だけで感じる周りの山々が怖く、また、龍という存在まで信じられてしまう、そんな感じがしてしまいました。

 起床の時間(朝食の時間?)になると、船内放送で中国の曲が響き渡ります。
それがなんとも味があって、中国らしい曲調なので、珍しさからかすぐ起きることができました。



断崖にある家と人 釣りをする人
断崖にある家と人 釣りをする人
タンカーのような荷を積む船 三峡に住む人々の足である船
タンカーのような船 三峡に住む人々の足
植林地 暗闇の中、船がすすむのに頼りになる信号
植林地 暗闇の中で頼りになる信号

 周りを見てみると切り立った山の中、断崖に家がへばりつくように建っているのがちらほらと見えます。
人も小さく見えます。牛を飼っている人が多いのか、一緒に歩いている姿も良く見受けられました。魚を採っている漁夫もいました。大きなたものようなもので何かをすくっているのも見ました。

 また、ここら辺の生活には船も欠かせない交通手段のようで、石炭のような黒い塊を運ぶ船のほかに、人々が乗り降りしている小船もありました。停留所はあるのでしょうか??

 また、植林事業のようで、若い木々が整然と並んでいる場所がありました。川に土砂が流れ出さないように植林をしているのでしょうか。

 更に途中、断崖にある茶畑や史跡の発掘で不思議な形に斜面が掘られている場所がありました。こうして、ダム建設は着々と進められている一方で、史跡や歴史的に研究されるべき物がまだあちこちで発掘されつつあり、また未発掘の物もまだまだあるのです。
これらがダムに沈んでしまうと思うともったいないですよね。

 中国内外の研究者たちが急ピッチで発掘作業に取り組んでいるようですが、ダム完成予定の2009年までにはとうてい追いつかないということで、誰にも知られぬままダムの底に沈んでいってしまう歴史の儚さを思いました。そして、なんだか歯がゆく思いました。








三峡

三峡渓谷
三峡渓谷

三峡とは、瞿塘峡、巫峡、西陵峡の3つから成る(全長240km)峡谷の総称です。
川幅のもっとも狭いところは100mほどの場所もあり、両岸にそびえたつ絶壁が覆い被さってくるようで圧倒されます。

 まず最初に通過したのは瞿塘峡。
ここは、全長8kmで三峡の中では一番短いのですが、もっとも険しく圧倒させられる表情の峡谷です。川幅が狭く、大きな船ではすれ違うことも危険なところもあるので、事故防止のため川の交通は時間で区切られ一方通行になっていました。一方通行の案内は信号所の屋根の上の矢印で分かるようになっていました。

 次に、巫峡。
瞿塘峡に比べると穏やかで、まさに山水画の世界です。両岸には、三峡一美しいといわれ、12人の天女がそれぞれ山頂になったといわれている、2000m級の峰々が連なる巫山十二峰が迫ってきます。

 最後に通過するのが西陵峡です。
洲や暗礁が多く急流なので最大の難所と言われているそうです。この西陵峡三峡ダムの近くで、2日目に通過しました。

三峡の景色をもっと見る>>

小三峡

 神農渓に行く予定だったのですが、前夜の大雨で水かさが増し、行くことが困難なため、小三峡に予定が変更になりました。

 

小三峡に行く船
小三峡に行く船


 小三峡は、長江の支流である大寧河にある渓谷で、川幅が狭く浅いので、小舟に乗り換えて行きます。

 船を下りて、バスに乗り換えガタガタの道を行くと小三峡に行くための船の乗り換え場があります。
途中、小さな町の中を通ったので窓からよく見ていると、小学校か中学校のような看板をみました。
どんな子供たちがいるのでしょう。どんな授業が行われているのでしょう。覘いてみたくなりました。

 それから、道沿いの家々の前では、家の中に明かり(電気)というものがあるのかないのか、何でも外に持ち出して外で本を読んだりゲームをしたりしていました。ゲームは碁のような将棋のようなものをしていたり、トランプなどをしていたようでした。
レコード屋や床屋も見られました。
何だか、中国・湖北奥地の人々の生活が垣間見られたような感じがしてとても興味深かったです。


パンダ洞 桟道のあと
パンダ洞 桟道のあと

 船着場に到着し、バスを降りると、お土産屋の子供達がわらわらとやってきて観光客にしきりに片言日本語で話しかけてお土産や食べ物を売りにきます。
 船に乗り、ガイドさんの説明を受けながら奥へ向う途中に、山肌に、まるでパンダの顔のような洞窟がぽっかり口をあけていたり(パンダ洞と言われているそうです)、約2000年前に、蜀から漢へ通じる断崖に作られた桟道のあとがありました。これは、今の陝西省と四川省を結ぶ道です。
桟道跡自体は、四角の穴が上下二列に並んでおり、上の穴には水平に棒をさしその上に板を渡し、下の穴にさした棒でそれを支えていたようです。全体でも数百キロも続いているそうです。「蜀の桟道」は三国時代に劉備の軍がすでに利用していたとされています。「史記」には「桟道千里、蜀漢に通ずる」とあります。
こんなものをつくるなんて、とんでもなく気の遠い仕事であり、とんでもない距離であり、それをまた道具も技術も整っていない時代によくつくったものだと、この桟道跡をみると驚かずにはいられません。この桟道がもしそのまま残されていれば、ずっとたどってみたいと思いました。きっとこの道からは、当時この桟道を通った人たちが見た同じ景色を見ることができるのでしょうね。そんな思いをはせながら、小三峡を進んでいきます。  更には、死者を葬って祭った跡も高い崖の上に見えました。昔は、死んだ人を神の近くにいかせるという意味で、山の高いところに葬り祭ったようです。

 着いた小三峡はまた雰囲気の異なる情緒がありました。
河原に少しだけ降りられるようになっており、河原を見てみると、綺麗に角がとれた丸い小さな石が沢山ありました。



白帝城

船から白帝城を眺める 白帝城門
船から白帝城を眺める 白帝城門
白帝城から三峡渓谷を眺める
10元札の裏にも印刷されている
景色

 奉節というところで下船し、全部で900段とも言われる階段を汗しながら登り、ついたところは白帝城。
白帝城は、李白の「早に白帝城を発す」の舞台で、階段を上りきった入り口に石碑が立っている。また、三国志の劉備玄徳が、222年、呉への遠征である夷陵の戦で天下統一に破れ没した場所で、白帝廟に祀られています。死期を悟り、成都から諸葛亮孔明を呼び、蜀の国と自分の子供を託した場所がこの地とされています。

 この900段の階段を登るのがだるい人も、「カゴ」もあるのでいくらか支払えば、この白帝城からの素晴らしい眺めを味わうことが可能です。現地の方がエッサホイサとカゴに乗った人を運んでいる様子を見て、まるで少し前の日本では!?と驚いてしまいました。

 階段を上りきったところで見える景色は、切りたった山々の間を長江がうねりながら流れ織り成す、水墨画のような美しい景色で、10元札の裏にも印刷されているそうです。そこで、私も同じような絵になるようパチリ→

 また、茶芸の様子を見ました。
まず、茶器を暖めたり、茶葉を一度洗浄する意味で茶葉の入った急須のお湯を捨てたり、聞茶といってお茶をまず聞香杯という茶器に入れ、それを茶杯にあけた後に、お茶の入っていない聞香杯の香りを楽しんだりしました。
そして、ようやく小さな小さな茶器にいれられたお茶を飲むと、量はちょっぴりなのに、ほわーっと甘い味がしてあと味も甘みがあり、日本茶とはひと味もふた味も違う感じでした。入れる茶葉の量は少量だったのに、しっかりと香りも味もあります。
プーアール茶は非常に高級で、見せてもらうと平たい円盤状のもので、それを少しちぎって入れるようです。ワインのように何年物とあるようで、熟成されたものが非常に美味しくて高級だということでした。
茶芸ではそんなプーアール茶は見るだけでしたが、これが茶芸で、これが本場の中国茶か、といれてもらったお茶を一口ずつ味わって飲み干しました。

  中国では、飲んでいる口を相手に見えないように腕を顔の高さまで持ち上げて口元を隠すように飲んだり、横を向いて飲むとのことでした。更に、3度に分けて飲み干します。日本の茶道とも随分違うようです。

 あまりに美味しかったので、そのお茶を買って家でも飲んでみたいと思い購入しました。
購入する時、一緒のツアーの方たちと意気投合し、まとめ買いをするから安くして!と値引き交渉をしてみました。結果、かなりお買い得な値段で、みなさんホクホクして帰りました!
中国では買い物時のこんなやりとりも楽しいものですね。お土産屋さんでは店員さん泣かせの値引き交渉で、「本当に、初めての海外旅行??」と疑われてしまいましたが。


 その後、船に戻り、夕飯後、船内では、最後に船長主催のお別れパーティなどもやりました。イスとりゲームなどいろいろなゲームをしたり、ダンスをしたりして楽しみました。


三峡ダム

ダムに沈みゆく景色 ダム工事の様子
ダムに沈んでいく景色 ダム工事の様子
ダム工事の様子 ダム工事の様子
工事中のダムに近づいたときの様子

 明け方、6時前だったでしょうか。まだ夢うつつの状態の中、船内放送で、「まもなく、建設中の三峡ダムにさしかかります。よろしければ、デッキの方でご覧ください。」というアナウンスがかかりました。
よろしければというか、「コレを目的にはるばる日本からやってきているのだから、見るでしょ!」、と寝ぼけ眼でデッキのほうへよろよろと向かうと、まだかなり薄暗く何が何だかわからない状態でした。
 ずっと目を凝らして見てみると、すでに周囲の景色が緑深い渓谷美ではなく、山は切り開かれ重機も見えます。遠く前方には、煌々と明かりが見えます。

  建設中のダムに近づくとその大きさに驚きました。
朝もやがかかり、写真は少し見づらいのですが。ダムが完成したら、きっとこの辺りも新たな観光資源として、今とはまた違った賑わいを見せるのでしょう。

 発電量は黒部の25倍、宜昌にある葛州覇ダムの4倍、中国の電力の約1割をまかなう巨大水力発電ダム。13市が水没し、100万人以上の人々が強制的に移転させられ、また8000にも及ぶ貴重な遺跡も湖底に沈みます。
 この三峡ダムは中国だけでなく海外にもいろいろな議論をよんでいますが、すでに着工され、完成予定の2009年ももうすぐです。

上海の夜景
       上海の夜景 
煌煌と輝くこの町の光も三峡ダムの恩恵を受けることになるのだろうか


  中国において万里の長城以来の国家的大プロジェクトであるといわれてる三峡ダムが、完成後に何らかの影響を及ぼすだろうということは想像せざるを得ません。それが経済的になのか、環境問題的になのか、地形地質的になのかはまだわかりませんし、様々な推測が飛び交っていますが、工事が進んでいる今、私たちがすべきことは、出来るだけきちんとしたデータや資料を集めておき、完成後のデータと比較したり調査を行い、見守り続ける姿勢が重要なのではないでしょうか。




 




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