ロイター

 

2010年3月11

 

ドリームワークスの『ドラゴン』は 火を吐かない

 

カーク・ハニーカット

 

ロサンジェルス(ハリウッド・レポーター)――『ヒックとドラゴン』は、「どうしてぼくたちは 仲良くできないんだ?」と叫ぶ一人の小さな子供を間に立たせて、ドラゴンをヴァイキングに立ち向かわせる。

 

ヴァイキングた ちはみな筋肉むきむきで髪はもつれてもじゃもじゃ――そして、おつむはあまりない、という含みがある――対するドラゴンたちは、恐れるのと同じだけ恐れら れる獰猛で、空を飛び、火を吐くなど色々なことをする生き物の群れである。ここから、ドリーム・ワークス・アニメーションは、子供と大人の興味を同じよう にそそるが、どちらの陣営でも別々に上映できる3D 映画を作ろうとした。

 

その滑稽なタイ トル[原題は『ドラゴンのしつけかた』]にも関わらず、この映画には激しいアクション・シーンや暴力が含まれ、 最近のある試写では小さな子供たちが叫び声を上げて効果音を提供してくれた程だ。それにも関わらず、公開第1週末(3月26日)には映画館の前にはきっと長い列ができるだろう。子供たちがどれほど好意的にドラゴンに反応してくれ るかが、このアニメがゆくゆくはどれだけ長い間上映されるかを決定することだろう。

 

この映画は、 素晴らしい『リロ&スティッチ』をやったクリス・サンダースとディーン・デブロイスが監督 した。多くの点で、これは同じ映画である。ある子供が破壊的な生き物を引き取り、それから飼い馴らす。しかし、遠く隔たった古代の戦士と神話的な生き物た ちの方を取って、『リロ&スティッチ』のストーリーの親しみやすさやポップ・カルチャーと の関係は棄てられた。ヴァイキングにもドラゴンにも熱狂的な関心を作り上げるのは難しい。

 

アニメーション の立場からもっと奇妙なのは、鈍臭いキャラクターたちだ。彼らは子供用の人形の広告のように見えるプラスティック・クリーチャーだ。男のヴァイキングのほ とんどがステロイド中毒の首のない筋骨たくましい人となっている。子供たちはマンガの人間に近いが、少なくともサイズは別になっていて、主人公とまったく ガリガリで彼の目を惹く勇敢な若いヴァイキングの少女がいる。ほかの人たちがそうではないのに、彼らは何を食べているのだろうか?

 

映画の中心は、 ヴァイキングの少年ヒック(声はジェイ・バルチェル)とトーゥス[レス]と名付けられたドラゴンとの間に育って行く友情である。伝統と遺伝子が命じる通りに傷ついたドラゴンを殺す のではなく、友だちになることでヒックは大人たちがドラゴンについて知っていることはすべて間違っていることに気がつく。

 

ドラゴンは訓練 できるし、平和を好み、情愛がある。しかし部族の大人たちや父親(ジェラード・バトラー)――たまたま部族長なのだ――や親しみやすいドラゴン・マス ター(もしそのようなことが可能であるとしたら、さらにスコットランド訛をきつくしたクレイグ・ファーガソン)にそのことを言おうとしてみたまえ。ここに 若き主人公にとっての副次的な問題がある。彼は、他の10代のヴァイキングたちの前で恥をかかずに 父親と若いヴァイキングの少女(アメリカ・フェラーラ)を説き伏せようとする。これは一人前の大人になる話には付き物のことだ。決まりきった話を北欧のネ ヴァーランドで作り直すことには、あまり新鮮味がない。

 

この映画がいか なるものであるかを示すのはアクションだ。広範囲にわたる戦いと飛行の連続――ヒックはトーゥスを訓練して、鞍をつけて彼を乗せるようにする――がたっぷ りとスリルを提供してくれる。実際、監督とアニメーション・チームは、こうした向こう見ずの連続の間元気づいているようだ。

 

さもなくば、視 覚的な要素はがっかりだ。人間がプラスティックのようである以上に、ストーリー世界はせいぜいがスケッチのようだ。英国の作家クレシダ・コウェルのシリー ズから借用した、皆が暮らしている寒くて陰鬱な北欧のバーク[バカ]島は、退屈なものになり、もう一つの世界、恐竜の世界は真に迫ることはない。

 

空中を飛ぶ数多 のドラゴンがいるが、映画は彼らをあまりにも大急ぎで紹介するので、どれがどれだかさっぱりわからない。映画はアニメーターたちが獰猛さと可愛らしさのど ちらとも決めかねて、彼らをどっちつかずに扱っている。トゥースはちょっと猫のようだし、他のは中華街のパレードのもののように見える。『ドラゴン』はド リーム・ワークスの堅実な努力を表しているが、観客はその努力をそうあるべき以上に感じるだろう。



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