日本語字幕:手書き書体、下、岡田壮平/ビスタ・サイズ(1.66)/ドルビーデジタル
(米R指定)
第一次世界大戦直後の1918年、ミュンヘン。ドイツ・オーストリア同盟国側は敗北し、ドイツ軍人として戦ったアドルフ・ヒトラー伍長(ノア・テイラー)と、画商でユダヤ人のマックス・ロスマン(ジョン・キューザック)も復員してきた。マックスは右腕を失いながらも裕福な家庭に育ったため、すぐに画商としての仕事を始めるが、ヒトラーは職もなく絵を描きながら、あるグループの政治活動に参加し、アジテーションをすることによって糧を得ていた。やがて2人は出会い、マックスはヒトラーに才能を見いだしもっと絵を描くように勧める。 |
ヨーロッパ映画にありがちな、メリハリのない単調な映画。ほめる映画評論家がたくさんいそうだが、ボクは退屈でしようがなかった。まるで社会科か何かの教科書を読んでいるような感じ。しかもドイツの話なのに、当たり前のように英語だし。 頭のいい人が、いろいろ深く考えて作ったのだろうと言うことはよくわかる。それを象徴するようなカットもたくさん散りばめられている。しかし、どれもうまくつながっておらず、話はちっとも盛り上がらない。あえて言えば日本語タイトルの勝利。オリジナルのタイトルは主人公の名前である「マックス」だが、ヒトラーにあまりアレルギーのない(というか、ヒトラー自身がほとんど知られていない)日本では、ズバリ、タイトルに出してしまった。しかも画家志望だったことは歴史の先生でもない限り、模型やミリタリーに興味のある人以外ほとんど知らないのではないだろうか。ヒトラーと画集? このミスマッチが興味を引く。タイトルの勝利だよなあ。 しかし陥りがちな自縄自縛の罠にまんまとはまっている。映画の中でマックスの口を通してヒトラーに対して繰り返し語られているのは「絵からおまえの肉声が聞こえてこない。怒りや哀しみや喜びを絵に表現しろ」ということ。「テクニックや巧拙は問題ではなく、同じものを見たときでもオレとオマエでは感じることが違うはずだ、それを表現しろ」と。とても激しい口調でそれが繰り返されるのに、この映画自体に感情が感じられないのだ。とても淡々としていて、冷めているかのよう。 吹き抜けの1Fと2Fを同じ画面内に捕らえて両方にピントを合わせるとか、カメラがどんどん上に引いていって、上流社会の寒色系照明が当てられた世界と、人々でごった返す庶民の暖色系照明が当てられた世界を、意図なのだろう鍵十字型に完全に仕切って俯瞰で見せるカットなど、技術的あるいは表現テクニック的に非常に優れたカットは随所にある。それなのに作者の感情はまるで伝わってこない。「映画から監督の肉声が聞こえてこない」のだ。 盛り上がりもないから、途中で何回か気を失いかけた。ハリウッド的な派手さは不要としても、ドラマツルギーとしてせめて起承転結くらいは必要だったのではないだろうか。ラストが事件とは言えるのだが、この盛り上げ方では「起」くらいにしかならない。 かつてどこかのテレビでヒトラーの特番を放送したことがあり、そこで名人だったという彼の演説の分析もされていた。私の記憶が確かならば、それによるとヒトラーの演説というのは最初は語りかけるように小さい声で始めると言っていたと思う。こうすると聴衆は聞き取ろうとしてどうしても集中せざるを得ないという。こうして聴衆を引きつけてから、徐々にヒトラーはテンポをあげ扇情的になっていくという。こうして聴衆を酔わせたと。 当然、この映画の演説シーンでもちゃんとそのヒトラーの演説を再現しているのだと思った。ところが、貧相で小汚いこの神経質そうな小男(そう演出されているので念のため)は、最初からヒステリックにつばを飛ばしながら怒鳴りまくるのだ。こんなやりかたで聴衆を魅了できるはずがない。自身も演説に酔うことなど出来ないし、民衆の心をつかんで扇動することなどできるはずがない。当時の記録フィルムなど見ていないのだろうか。チャップリンの「独裁者」のあの見事な演説と対照的。まあ現実には徐々に演説がうまくなっていったということなのかもしれないが、映画ではそのうまさを描いて欲しかった。 得るところがあるとすれば、世界大戦を引き起こし、あれだけの虐殺を指示した人物さえも、大恐慌のさなか生きるために選んだアジテーションという仕事から、否応なく成り上がっていったのかもしれないということ。今は自分からやりたいことを決め、つかみ取っていくのが当たり前なのだろうが、そうでない人もたくさんいる。ただ食べるためだけに選んだ仕事が、自分自身の人生はもちろん世界までをも変えてしまうかもしれないと。そんなことの方が今でも本当は多いのではないだろうか。ヒトラーは一時期、画家を目指していた。この映画のようにして政治家になっていったのかボクはわからないが、こういうことも十分あり得る気がした。ヒトラーの本「我が闘争」を読んでみるべきかもしれない。 良かったのはマックスの愛人で娼婦のリセロアを演じたリリー・ソビエスキーではなく、バレエをやっているという設定の正妻ニーナを演じたモリー・パーカーという人。普通、こういう映画では愛人の方が目立つものだが、リリーより10歳上のモリーの方が強く印象に残る。カナダ生まれの女優さんで、これまでインディペンデント作品を中心に活動しており、いくつか賞も受賞しているのに、世界的にはあまり知られていない。本作もIMDbでの評価などを見るとメジャーになるとは思えず、ブレイクのきっかけにはなりそうもない。本当に清楚で美しい女優さんなのに、残念だ。 監督で脚本も兼ねるのは、ハリウッドで脚本家として活躍中のオランダ人で、メノ・メイエスという人。スピルバーグの「カラー・パーブル」(The Color Purple・1985・米)の脚本や「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」(Indiana Jones and The Last Crusade・1989・米)原案、「マーシャル・ロー」(The Siege・1998・米)の2番目の脚本家だったりした人。 新宿の劇場は完全入れ替え制で、前売り券を持っていても受付して番号をもらわなければならない。並ぶスペースがないので、番号の若い順に5番ずつ入場する。ボクは35分前について130番。 最終的に指定席なしの340席ほぼ全席が埋まった。そうか、しまった。この劇場は毎週水曜日が1,000円均一の日だった。しかも今回は祝日の水曜日。混むわけだ。ただし、完全入れ替え制なので立ち見はいない。ただし、I-MAXシアターなので客席の配置はかなり左右の端までと、前席の下の方まであるが、35mmフィルム用にスクリーンが小さくなるとそれらの席はかなり辛い。 大半が高年齢。題材的にもこれらの年齢層を刺激する映画だ。男女比はほぼ半々。 ちなみに予定されていたヒトラー肉筆の絵画展示は、各国からのクレームにより中止したらしい。当然と言えば当然。 |