何 か を 教 わ る 為 に 作 品 を 作 る


小川水素さんインタビュー
(2011年8月)



・私は自分が知らないことをすることを目標にしている
・私は野蛮に生きるために作品を作る
・私は作品から何かを教わるために作品を作る
・私は伝えたい内容を持たない
・私は自分自身にあまり関心がない

これは、小川水素さんが2008年8月23日に自身のブログに記した“水素宣言” 。小川水素さんは、08年8月から09年3月にかけてRAFTにてシリーズ公演「Homage to [a] life1〜3(オマージュ・トゥ・ア・ライフ)」を上演しました。水素さんのダンス作品には、アクロバティックな激しい動きやリズミカルな音楽、わかりやすい物語やイメージ……そういった要素はまったくありません。初めて水素さんの作品を観る人はその作品を前にして、「え、これってダンスなの?」と戸惑うかもしれません。しかし、じっくりと水素さんの作品に向き合うと、身体表現を貪欲に探求する姿勢と、どんな視線も柔軟に受けとめる寛容さ、そして私たちの生きる世界(社会)を作品創作を通じて理解しようとする強い意志を感じることができると思います。今回のインタビューでは、そんな意欲的な作品を発信している小川水素さんに迫ってみました。

 

 

「“おとぎ話的世界に入りたい”と思って、7歳のころにクラシックバレエを習いはじめたんです。もちろんスパルタ的なところがあったので、やめたいなあと思ったこともありましたが、中学生のころには逆に打ち込むことが楽しくなって、部活みたいな感じで熱中して取り組んでいました。でも、そのころの夢はバレエダンサーではなく、シンクロナイズドスイミングの選手か小説家だったんです。シンクロ選手の鍛えられた肉体への憧れと、作家のようなフリーランス的な生活への憧れの両方があったんですね」

そんな相反する夢を抱えた中学生の水素さんでしたが、高校へは進学せず、バレエ学校へ進むことにしました。

「中学校を卒業してバレエ学校へ通ってたんですが、さっきもお話ししたとおり、将来バレリーナとかダンサーになろうと思っていたわけじゃありませんでした。バレエの先生から“もうちょっと頑張ってみない?”って言われて、“やります”って感じで熱くなって打ち込んでいたんです。ストイックに作品を作り込んでいく気持ちよさや、みんなでひとつの作品を作り上げていくのも楽しかった。でも、バレエやりながらケガとかたくさんしちゃって、17歳のころには踊れなくなってしまったんです」

ケガをきっかけとして、水素さんはバレエ学校以外にさまざまな教室へと足を運びはじめます。

「バレエの表現の可能性は身体によって決まるっていうのがわかっていたから、怪我をしたらもう無理だなと感じていました。そのときにいろいろな先生のところに通ったんですが、そのなかで、世界にはバレエだけじゃなくさまざまなダンスがあるってことを教えてもらいました。バレエ以外のダンスに触れることで、自分のなかでのダンスの概念が書き換えられていったんです」

ある先生との出会いが水素さんにとても大きな影響を与えたという。

その先生はバレエを教えていたのですが、バレエの伝統を盲目的に受け継ごうというのではなく、客観的に分析する視点と、広い視野からバレエを見直そうという姿勢を持っていたんです。そのクラスではバレエでやっていたことを剥ぎ取っていくような感じのことをやっていて、そこでピナ・バウシュとかフォーサイスとかを知ることにもなりました。なんだかバレエよりも大人だなあって感じましたね。十代の私には、フォーサイスなどは内容も哲学的だし身体テクニックもすごく高度で、そうとう難しいと思ったんですけど、でも、すごく引っかかる部分がありました。その先生からは、あともうひとつ重要なことを学びました。それは、バレエは肉体の機能美だということ。それまでは “バレエの美しさ”って何なのかわかっていなかったんですが、身体のそれぞれのパーツ、筋肉とかがしっかりその役割をはたしていればおのずとバレエ的に綺麗な形になるし、身体っていうものを自分自身の機械としてフルに機能させれば綺麗なターンになるし、綺麗な立ち方になる。バレエはその機能美を、型、技巧として確立しているわけです。そしてさらに、その先生のクラスでは、個人個人の身体にも機能美があるということも教えてもらった気がします。それぞれが持っている身体でそれぞれの機能をフル活用すれば、それですごく美しくなるということです」



新しい身体の可能性を知った水素さんは、さらにさまざまなダンスを吸収しいく。

「バレエを通じて機能美や、さらには身体の機能そのものを知ることになって、それから舞踏やコンテンポラリーダンスなど、いろいろ観るようになりました。そのなかでオイリュトミーをやる子どもたちのビデオを観たんです。それがとても綺麗で、すごくグッときました。オイリュトミーって、手を上げて遠くに広げましょうとか、みんなで輪をつくりましょう、輪を上げていきましょうとかっていう動きをするんですが、それだけじゃなく、エネルギーを感じながら動いて、とか、自分の身体を通して左から右へエネルギーを流して、みたいなことをグループでやるんです。最初は“何これ??”って感じでしたが、やってみたら、スッとできちゃったんです。それまでやっていたバレエは、ある美学があって、そこに向かってやらなきゃいけなかったのが、オイリュトミーの場合、動く理由が自分のなかにある感じ。それが身体とピタッとフィットしたみたいです。ただ、オイリュトミーに対しても、それはそれで型のようなものを感じてしまい、しばらくは忘れていました。でも、作品を作るようになって、これまでやった踊りで一番楽しかったのはなんだろうと考えたとき、あ、オイリュトミーだって感じたんです」

はじめて水素さんがダンス作品を作ったのは、ダンスから距離をおくために入学した大学でのことでした。

「大学入学したのは、ダンスからちょっと離れて普通に学生生活をしたいと思ったからなんです。でも、学校のひとに“ダンスやっているんだったら、なんか踊ってくれない”みたいな感じで学内のイベントに誘われたのがきっかけで、はじめて自分の作品を作りました。一作目を作ってみると、次は何を作ろうかっていう気持ちになって、二作目、三作目と創作していきました。そのころはオイリュトミーや即興みたいものを自分なりに組み立ててやっていた、という感じでしたね」

水素さんの初期作品には、日本舞踊をベースにしたものもあります。

「日本舞踊を習ったのは、とりあえず教養としてやっておくべきだと思ったことと、日本舞踊を観て、すごくかっこいいなあって思ったからですね。舞踊家がすーっと舞台にでてきて傘を開いて閉じて、それだけで去っていっちゃう。まずそれだけですごくかっこいい! それから傘の閉じ方や一つ一つの所作にもいろんな動きと解釈があって、その身振りがすごく面白いなって思いました。観客をどんどん作品に引き込んでいく感じが興味深くて、自分の作品にも取り込んだりしましたね。
そんな具合に、20代の頃は ‘ダンス’ と呼ばれるものにどんなものがあるのか知りたかったので、とりあえずいろいろなメソッドを取り込んでみようという感じでやっていたんです。創作の面でも毎回違うことをやっていて、演劇っぽいことから、感情を込めた作品、日本舞踊の要素を取り入れたものまで、コンセプト自体を変えて、次にまだやっていないことを探すというのが作るモチベーションになっていました」



現在の水素さんは、ひとつのテーマを追求しているように感じます。

「20代のうちはいろいろなことをやろう、30代になったらひとつのことを10年やろうと思っていました。20代の終わりにトリシャ・ブラウンを観てすごく感銘を受けたので、ニューヨークまで行き、トリシャ・ブラウンのクラスに参加しました。そのことで自分の狭い世界が俯瞰でき、また創作の世界を一周したようにも思えました。だから、これからは自分が一番大事なことをやろうと決めたんです。それが「Homage to [a] life」を作るきっかけとなりました」

幼少のころからバレエをはじめ、さまざまなジャンルの身体表現を経験しながら到達したことはどういったものなのでしょうか。

「アートにおいて一番大事なのは、衝動とか抽象的な表現だろうなって思っていたんですよ。それまで自分で作品を作っていて、初期衝動を表現するために、それに衣装を着けたり、音楽をかぶせたり、意味をふくらませたりってかたちで、どんどんわかりやすくしなければみたいに思っていたところがあった。でも、ニューヨークに行ってトリシャのクラスを受けたり、美術館で抽象絵画を見ていたら、初期衝動だけで純粋に表現をする人たちが沢山いるんだなあと思ったんです。それをわかりやすくするために薄めるんじゃなくって、凝縮する方向でやっている人たちが、ここにはいる。ここにこういう世界があるんだから、私も、わかりやすくなくてもいいから、自分が大事にしているものをしっかりやろうと思ったんです。それはあまり受け入れられにくいだろうけど、自分にとっては一番大事なことだから、覚悟をしてやらないといけないなあと思っているときに、RAFTを紹介してもらったんです。」

ニューヨークから帰った水素さんは、その半年後にRAFTでのシリーズ公演を開始、2008年〜09年にかけ、3回にわたって「Homage to [a] life」を上演しました。

「身体の表現ってすごく時間がかかるから、じっくり時間をかけて同じ場所でやらないとリアリティがないと思ったんです。シリーズで作品に取り組めるという条件はとてもありがたかったですね。自分のやりたいようにやらせてもらったし、すごくいいタイミングで取り組めたと思っています。あと、ダンス的な劇場って、ちょっと違うかなって思っていたところもあったので、RAFTの空間で自由に作品を作れたことはとても貴重な体験でした」



そんな水素さん、再び2011年夏から半年間ニューヨークへ行くことになりました。

「今度のニューヨーク滞在は、自分のカンパニーを本格始動させる前に、一人で修行しておく期間が必要かなと思って決めたんです。カンパニーを始動させたら大変になっちゃうと思うので、そうなっても自分がすり減らないくらい、ニューヨークでいろいろ吸収したり、自分の核みたいなものを見つめたいと思っています」

水素さんの今後の展開についてうかがってみました。

「クリエイティヴ集団みたいなチームワークを作ろうと思っています。私がこれがいいと言うと、それを何も考えずに実現するというダンサーではなくて、私が提案したアイデアに対して、皆がアイデアを出したり、いろんなやり取りをすることで新しいものを提示していけるような集団を作れればと。ダンサーに限らず、いろいろな分野のアーティストともアイデアを交換して、自分が予想する以上のものをチームで作っていきたいですね。それから、お客さんとのチームワークというか、共同体づくりみたいな意識で意見を交換したり、表現を広げていけるといいなと思っています。もしお客さんが私の作品を観て、“えーっこれってダンスなの?”って思って帰ったとしても、そういうものを見たっていう驚きが、その人にとって新しい体験になってくれたらいいなあと思っています」

「野蛮と洗練」……水素さんのダンスに立ち向かう気持ちをうかがった今回、一見対立するようなそんな言葉が浮かんだ。野蛮なだけでは刺激が強すぎ、洗練されすぎると退屈に感じる。その両者の間を自身の興味のままに進んでいく水素さんのタフさに、創造に対する頼もしさを感じたインタビューだった。
(インタビュー 来住真太)


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