A mere
scholar, a mere ass.
零細一口研究
INDEX おまけ編 2006/04/20 社台グループの2005年産駒連名簿
1.立場が違えば戦略も変わる
2005年のM.L.B.とN.P.B.は、それぞれシカゴ・ホワイトソックスと千葉ロッテマリーンズがチャンピオンになりましたが、このことはあることを示唆しています。 それは、スモールベースボールがパワーベースボールに勝つこともあると言うことです。 勘違いしてはいけないことは、スモールとパワーのどちらかが優れているということではなく、置かれている立場・環境・目的が違えば、戦略もおのずから異なると言うことです。 野球と競馬は同じではありませんが、大馬主、零細馬主、零細一口馬主では採るべき戦略は異なります。 よく、一か八かで大物を狙う人がいますが、これは大馬主にのみ(*注)許される行為です。 銃をいっぱい持っている人は、銃を替えながら、運に任せて弾をいっぱい打てば敵を倒せるでしょう。 しかし、1丁の銃に弾が1発しか入っていない人は、次の弾を込めるまで確実に敵を足止めしなければ、やられてしまいます(そして、敵の足止めを続けられれば、少しの幸運が味方して敵は倒れてくれます。たぶん)。 それでは、私のような零細一口馬主はどの様な戦略を採ればいいのでしょうか? (*注
大馬主がみな運任せと言っている訳ではありません、運に任せての勝負もして良いと言っているのです念のため)
一口馬主が馬に直接的に関与できるのは、募集馬のカタログから希望する馬を選択し、出資馬の契約を結ぶところまでです(しいて言えば、あと権利を放棄することもできるか)。 もし、出資馬のレース選択・騎手選択等に不満があって、クラブに意見したとしても 「日頃クラブの運営にご協力いただきましてありがとうございます。 あなた様のご意見は今後の参考にさせて頂きます。 今後とも、何かありましたらお気軽にご意見、お問い合わせをお願いします。」 (実際はクラブに意見も、問い合わせもしたことはないので、あくまでも想像なのだが…)ぐらいの回答があって、スルーされるだけでしょう。 あとは、牧場に出資馬を見に行っても、出資馬のレースの応援に行っても、馬が強くなるわけでも、勝ち星が増えるわけでもありません。(まあ、楽しいことは楽しいけれど) ですから便宜的に、出資馬に求める目標を決めるところまでを戦略、戦略にあった馬の選び方を戦術として考えていきましょう。(このへんは考えていくうちにご
っちゃになり、明確に分けられないかもしれません。だって、この先の展開もまだ良く考えていないし)
2.零細であることを自覚する
まず零細一口馬主の定義を決めましょう。 私の出資基準は、原則年1頭、募集総額は2000万前後です。また、出資候補を決めた後、総額4000万以内でもう1頭分の余裕がある場合は、テーマを決めて実験的に出資しています。(そして、どうやら実験はすべて失敗に終わりそうです) 今のスタンスを始めたのは1999年産の募集馬からです。それ以前は特に決まったスタンスはありませんでした。それから少しずつ改善を加えて今に至っております。 2004年産のヴァルールーズ04は、私の基準から言えば反則ギリギリの高馬です。これは、サンデーサイレン産駒がいなくなった後の混乱のせいだと思っていますが、これについてはそのうち述べます。 さて、以上はあくまで私の例ですので、零細一口馬主の定義を「原則年一頭、総額は中価格以下」の馬にしか出資しない(できない)としましょうか? これに該当するあなたは、零細一口馬主です。おめでとうございます(謎) 断っておきますが、零細とは規模のことを言っているのであって、別に卑下する必要はないんです。 また、「俺は安馬に少頭数しか出資していないが、金は持っているぞ」と言う人もりっぱな零細一口馬主です。お金は別のところに使っているでしょうから、
むしろそれが正解です。 でもね、一口馬主として底辺であることを自覚して、開き直れば楽になれますよ。 零細の自覚ができれば、戦略の1/3は達成したようなものです。 「孫子」には、「彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず。」と言う下りがあります。順番が逆になりましたが、己のことは認識できたとして、彼れについて認識する必要があります。 零細一口馬主の敵とはなんでしょうか?それは、競馬の歴史にあります。
3.クラシックという幻想
最近特に胴元がダービーからダービーまでというレーススケジュールを明確に打ち出し、競馬マスゴミも煽っていますので、われわれ一口馬主もクラシックを目指さないといけないように錯覚してしまいます。 しかし、私はこれこそが零細一口馬主の陥りやすい罠だと考えています。
そもそもクラシックは何のためにあるのでしょうか? 競馬の黎明期から第二次大戦ぐらいまで
競馬のプレイヤーはオーナーブリーダーとその専属的調教師と騎手であり、クラシックを勝つことは彼らに最大の名誉が与えられることでした。 一方でクラシックは優秀な繁殖を選定するためのレースなので、勝つことは同時に最高の繁殖を得ることであり、次世代の強い馬を生産できることを意味していました。 つまりは、名誉と血の選別・淘汰がクラシックの本来の意味でした。
第二次大戦後から現代
競馬のプレイヤーが細分化・多様化されましたが大まかに言うと、馬主と生産者と調教師と騎手と馬券オヤジです。 馬主にとっては高額の賞金と引退後の売却益が手に入ります。引退後も権利の一部を保有し、産駒を自分の勝負服で走らせるかもしれません。 生産者にとってはその馬の弟・妹が高く売れ、牧場のブランド力が上がりあわよくばその他の馬も売れるかもしれません。 調教師は管理依頼が、騎手は騎乗依頼がとりあえず増えることでしょう。 馬券オヤジにとってはどんなレースでも当たりさえ(ry まあ、いずれの立場にせよ名誉であることには違いありません。 つまりは、名誉とビジネスのためです。
もし、あなたの出資馬が条件馬でトライアルでは歯が立たなかったけどクラシックに出られそうならばどうして欲しいですか? 若い調教師や騎手にとっては、例え本番で惨敗するとしても、レースに出走することでしか得られない経験値を積むと言う意味があるかもしれません。 ただ、その経験が次に生かされる対象はあなたの出資馬では無いでしょう(そう何頭も調教師にクラシックを意識させる馬に出資できるわけがありませんから) このように、クラシックに勝利したしたときに彼ら(馬主、調教師、騎手)が得られる物が大きいゆえに、また日頃からクラッシックこそ最高の物だとの刷り込みがなされているため、多少無理してでも出走させようとする気持ちは止むを得ないでしょう。
それでは一口馬主にとってクラシックに出走する意味とはなんでしょうか? まず名誉はありません、それはクラブのものです。 もちろん血の選別・淘汰も関係ありません。 レース経験を積んでも次の出資馬が走る確率が上がるとも思えません。 仕事も順調になりませんし、彼女もできません、クララも車椅子から立ち上がりません(意味不明) 賞金の配当はありますが、結局得られるのは自己満足だけです。それも成績が良ければの話です。 それならば勝つ確率の高い自己条件のレースに出走するのと大差ないんじゃないでしょうか?
一口馬主は所詮アマチュアの趣味ですから自己満足が全てであると思います。 でも二桁着順でも満足できるでしょうか? 過酷なローテーションのため、その後の競走成績に影響がでても満足できるでしょうか?
大体、皆が目指すと言うことは競争率が高いと言うことです。 一方、零細一口馬主は少ない労力でそれなりの成果を上げられるかどうかが勝負です。 それならばハナからクラシックに無縁な馬を選ぶことも一つの考え方です。 最近思うのですが何故クラブがこの時期に募集をかけるのか? それはクラシックを傍で見て盛り上がっちゃって一発当てようとする会員たちに、高い馬を売りつける戦略に違いありません。(昔は単純に夏のボーナスの時期だからと思っていましたが…)
もし、幸運にも出資馬が余裕のローテーションでトライアルを快勝し、次の適鞍がクラシックレースだったら・・・もちろん迷わず出走すべきです。 ただそんな幸運は年に一頭しか出資できない零細一口馬主が狙ってどうにかなることじゃありません。
これらの理由から私はクラシックを意識した出資馬選びはしません。
えっ、要するに高い馬を買えない貧乏人の負け惜しみじゃないかって? ああ、そうですよ!!
文句ありますか?(なぜか逆ギレ)
(2006/5/26のdiary を再載)
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